耳を傾け、真実を語り、祈ってくれる人
日本と違い、世代を越えて親しく談笑できるのが魅力ですね。リヨンにて。
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パウロの祈り (上)
Ⅰテサロニケ3章11-13節
(序)
初代教会のキリスト者たちは、自分たちの祈りはこれまでにない新しい祈りの形だと考えました。彼らはイエスから祈りを教えられ、旧約の祈りから自由になって天の父に親しみを込めて祈ったのです。これは非常に新鮮でした。
パウロの祈りの中心は、聖霊による執り成しでした。私たちはどう祈ればよいか分からないが、聖霊が執り成して下さるから大胆に祈っていいという聖霊の神への全幅の信頼です。
その聖霊の執り成しという所からでしょう、彼はキリスト者相互の、また人々への執り成しの祈りを強調しました。彼自身が多くの執り成しの祈りをしましたし、自分のために祈って欲しいと祈られることを求めました。こうして祈りの支え合いが、教会を力強くしました。
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今日の個所もパウロの執り成しの祈りです。2千年の時を越えて、彼の肉声が聞こえて来るような簡潔な祈りです。祈りは長いより、簡潔がいいのです。人に見せようとするから祈りが長くなります。
彼は先ず、遠く離れたテザロニケの信徒たちを再訪できるようにと祈っています。これまでお話しして来ましたように、テサロニケでは激しい迫害と苦難が起こっていましたし、それと同じような困難がパウロたちを襲っていました。
そうした中、再度テサロニケに行ってキリストによって力づけ、励ましたいと考えて、「神ご自身と主イエスとが、そちらに行く道を拓いて下さいますように」と祈ったのです。彼は、テサロニケの人たちへの連帯の道が開かれることを求めたのです。
3章7節以下でパウロは、「私たちはあらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなた方の信仰によって励まされました。…私たちは神のみ前であなた方のことで喜びに溢れています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか」と書きました。
信仰に生きる者たちは、普段は離れていますが、時々一つの場所に集まって互いに祈り合い、強め合う必要があります。彼は今、互いに苦境にある中で、共に会して強め合いたい。あなた方を強めたいし、私もあなた方によって強められたいというのです。
今年の秋季集会は町屋新生教会と合同で館林で行うことになっていますが、前回の準備会で、信徒の方が一つのアイディアとして、2人1組で祈り合う機会を作ってはどうかと提案しました。ある会社で責任を持って働く方ですが、自分が誰かにしっかりと執り成し祈られるということが必要だと感じておられる風でした。毎日帰りは10時とか11時です。業務成績を上げるためにいのちを絞りとられて生きている。孤独な闘いです。巨大な企業の中で僅かな働きながら、そういう人生を送っている現代人が、自分一個人のために名を挙げて執り成し祈られることを痛感しているのです。
パウロは人間の弱さを知る伝道者でした。自分の弱さも他者の弱さも、です。「賢者も虐げられれば狂う」と聖書にありますが、私たちの狂い易さ、心の脆さ。昨夜はお隣のマンションで長く警報ベルが鳴りました。あまり長くなるので急いで見に行きました。人間はちょっとのことで恐れを抱き、不安に襲われ、眠れぬ夜を過ごし、肉体の病に蝕まれることもあり、1つの病だけでなく3つ4つと幾つもの病に侵される場合もあります。
パウロもそうでした。パウロを強い人間と見るのは表面的な見方です。それは人間を本当には知らない人の浅い見方だと思います。
有名な数学者であり、哲学者であったパスカルは多くの病気で苦しみましたが、「病気というのは、キリスト者の本来のあり方だ」と書いています。病気によって人間の弱さを知り、それだけでなく人間の本当の病気が何であるかを知る事が出来るということでしょう。健康に恵まれ、一生幸せに暮らしている人はこれが分かりません。人の真実の姿が分からない。病気は恵みなのです。これによって私たちはもっと大きい病気、つまり魂が病むこと、魂の病を教えられるからです。
執り成しの祈りは必要です。自分のため祈ってくれる人があるという事はぜひ必要です。甘い言葉を語り、取り入る人はいます。媚びる人は真の意味では何にもなりません。誠実に耳を傾け、真実を語り、祈ってくれる人が大事で、真実を語ってくれる人を避けてはならないのです。ですから、それに聞く耳を持つことが大事です。
パウロは、真実な祈りと交わりのために、道が開かれそちらに行けるようにと祈るのです。
長く男を続けて来ていて最近思うのは、男というのはあっさりしているようですが、一皮むけば妬み深いです。競争心や闘争心を本能として持っています。強く見えますが、実は弱虫のところがあり、また孤独です。でも、これは女性にも共通する所があるのでないかと思いますが、そいう心の闇を持ちますから、男性も女性もキリストの光が自分の所に来ていることを、いつも聞いている必要があります。キリストには、尽きぬ命の泉が湧いていること、この方から命の水を頂くなら、必ず再出発できることを知って、励まされねばならない。
パウロはその事を語り、誰もキリストと私たちを引き離すことはできないことを語るために、再びあなた方の所に行く道を拓いて下さるようにと祈ったと言っていいでしょう。
しかし、この訪問の祈りは実際には直ぐには聞かれず、実現しませんでした。そう、聞かれなかった。ところが、聞かれないと思っていたところ、4、5年後に聞かれて短い滞在ですがテサロニケを訪問して励ますことができたのです。時が来なければ実現しない祈りが多くあります。だが時が来ないからと言って諦めてはなりません。忍耐して祈っていると道が拓かれて来ますし一番適切な時に道が拓かれます。
(つづく)
2012年4月22日
板橋大山教会 上垣 勝
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