古いぶどう酒のように味わい深い友


                     リヨンのオールド・タウンにある中世からの井戸 
                               ・



                                         新しい革袋を用意しよう!(下)
                                         マタイ9章14-17節


                              (3)
  イエス神の国の力に満ちて世に来られ、福音を語られました。徴税人も、罪人も、中風の者も遊女も、悪霊に憑かれた者も、新しい革袋のように活き活きとイエスを迎えたのです。弟子たちは驚くほどの新しい権威に触れて、悲しみや苦痛でなく、喜びで溢れました。花婿イエスを迎える花嫁に似ていたのです。

  イエス・キリストの救いに与ったということは、新しいぶどう酒を授けられたことです。ですからキリストの救いは、新しい革袋をもって受けとめるものです。福音に与った私たちも、新しい生き方を持って応えていくのが、ふさわしい自然な生き方であるということです。

  ヨハネの弟子やファリサイ人のような断食や、顔を顰めた厳しい禁欲主義は不要ですし、人を掟で縛る、古い在り方はもはや不要である。

  喜ばしい福音を聞いた者として、平和を作り出す者、キリストの福音から生きる者である。キリストが私に接して下さったように、私も人に接する。それが新しい革袋にキリストという新しいぶどう酒を入れる在り方だということです。福音に与った私たちは、そのような生き方へと促されるということです。

  「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ」とある、「新しい」という語はカイノスというギリシャ語です。これは時間が経てば古くなる賞味期限付きの新しさでなく、この世に対する質的な違い、この世と次元を異にする本質の新しさを指します。決して古くならない新しさです。

  キリストは世のものと違い本質において新しい方です。その方に、新しい器を持って応じる。新しい生き方とは、人を赦し、和解を作り出そうと決心する決断的な生き方です。古い過去的な生き方を越えて行こうとする在り方であり、キリストに促されて新しい関係を作り出そうとする在り方です。

  イエスの愛に与ったということは、真っ暗闇の中で太陽に出会ったようなものです。月がそうです。だから闇黒の孤独な宇宙の中で、月は太陽の光を反射しています。そのように私たちもキリストの光、愛を反射するのです。

  私たちは家族に対して、キリストが愛して下さったように接しているだろうかと反省せざるを得ません。新しい自分として差し出して行く。今までの古い革袋のままでなく、キリストの慰めを真剣に受け止めて、他にも接して行く。そうしているだろうかと自問自答してしまいます。

  決断を要します。古い革袋を捨て、新しい革袋を用意する決断です。決断がなされる時、家族にも信仰が少しずつ入って行くでしょう。いや、先ず自分の中に本当の意味での信仰が入るでしょう。だが、それをまだしていない思いを持つのです。しかし、目に見える変化でないかも知れないが、神などに顔を向けない家族の中にいて、神に祈りをする人間として、一人、神に向かう人間として生きる。新しい革袋とは、私の新しい存在の在り方です。

  家族だけでなく、同僚や色んな人たちに、キリストに愛されている新しい存在として対する。その時、必ず何か新しい世界が開けて来ます。「平和を作り出す者は幸いだ」と言われています。柔和な者たちは幸いだと言われています。だがそれに向って決断しているだろうか、キリストに出会って、新しい革袋に造り変えられようとしているだろうかと、自己を振り返るのです。

  「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ。」入れるべきだとも、入れなさいとも、入れねばならないでもなく。「入れるものだ」とイエスは言われます。

  リフォーム前の牧師館の2階の網戸が中々うまく開きませんでした。夏は必要ですから開け閉めが多くなります。開きにくい網戸を、妻はこじ開けようとするものですから、一層開かないんです。でも網戸の上の方を持つのでなく、下の方を持って、優し~く開けるのです。すると開くものなのです。

  頭に来て開けよう開けようとするから、開かない。向こうも意地があるんです。でも優しく引くと開くものなのです。ご主人にも優しくしてあげて下さい。すると思わぬことが開けて来るものです。

                              (4)
  今日は礼拝後、教会総会があります。この冬、お年を召した方々がお身体の都合で次々礼拝を休まれ、一時は15、6人の時もあり、改めて私たちの現実を重く受け止めました。

  その中で思ったことは、旧約聖書外典にシラ書というのがありますが、そこに、友はぶどう酒、「古くなるほど味わい深く飲めるものだ」とあります。

  「古くなるほど味わい深く飲める」、そういう信仰の交わりでありたいと思いました。年月が経ち、古くなればなる程、味もコクも出て来る信徒の交わり生活です。長い教会生活の内に色々なことを経験します。良いこともあるが躓きもあるでしょう。これまで経験したことがないことが、異常なものに突然出会うこともあります。だがそれを信仰によって乗り越え、試練や躓きもキリストに導かれて必ず乗り越えて行くのです。一歩、乗り越えると、信仰の味が段々深いもの、濃密なものになって行く。そういう交わりです。「友はぶどう酒。古くなるほど味わい深く飲めるものだ。」そういう信仰生活を目指しましょう。

  その中で互いに必要なのは、信頼であり、愛であり、祈りの確かさです。また赦しです。キリストの平和が教会に満ちることです。

  総会資料に書きましたように、「信仰の歩みには奥深いものがあります。キリストに導かれ、平地から高い峰まで達します。主の御許に召される最後の日まで信仰は深められて行くのです。私たちはみな神の家族です。互いに信頼してキリストを仰いで歩んでいます。若い方と共にご高齢の方が、この教会でみ言葉に養われ、人生を一段と深めて行きましょう。」

  「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」新年度を新しい革袋を持って、新たな気持ちで再出発しましょう。

  志村3丁目のご家庭で平日午前に開いている礼拝は、7、8名のいつも恵みのあふれる集いです。洗礼を考えつつある方もあり感謝です。今、この礼拝においでになっている求道者の皆さんも、長くかかってもかまいませんが、洗礼のことをお考え下さい。私たちは祈りつつお待ちしています。また平日礼拝を他の場所でも持つことが出来ればと願っています。挑戦が必要かも知れませんが、祈りがあれば、神は必ずその場を、そのご家庭を祝福して下さるでしょう。ぜひ相談して頂きたいと思います。

  幾つも述べましたが、いずれにせよ、信仰の王道に立って、「新しいことに挑戦し失敗を恐れず。」こういう気概で進みましょう。「新しいことに挑戦し失敗を恐れず」です。失敗を恐れていたら何もできませんよ。

  最後に、昨年は聖書を百回通読なさった豊吉さんから、一人の信仰者が持つ人間としての重さと信仰の歩みの素晴らしさを深く考えさせられました。百回読んだから素晴らしいっていううんじゃない、キリストを仰いで生きる皆さん全てが一人の例外もなくそういう存在でいらっしゃいます。それが私たち小さい板橋大山教会の誇りです。

          (完)

                                      2012年4月15日


                                      板橋大山教会   上垣 勝



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