世界に向け大きく両腕を広げるイエス


                             リヨンにて
                               ・



                                         新しい革袋を用意しよう!(上)
                                         マタイ9章14-17節


                              (1)
  譬(たと)えは、事実に即していればいる程、真実で適切な譬えになりますが、イエスはそのような多くの譬えを語られました。

  ヨハネの弟子たちがイエスの所に来て、彼らとファリサイ派の人たちは、「よく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と尋ねたこの個所でも、3つもの譬えが語られています。

  1つ目は、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時、彼らは断食することになる」です。

  婚礼は洋の東西を問わずむろん喜びの場です。そこに花嫁、花婿がいますから、友人たちは歌ったり踊ったり、みな喜び、陽気になるのは当然でしょう。しかし、何かの理由で花婿が奪い去られたら。今の日本ではありませんが、例えば、婚礼間もなく危険な戦争に行かねばならない。あるいは今の日本だと、新婚旅行で飛行機事故に遭ったりして花婿も花嫁も奪われることがあるなら、当然、家族も友人も悲しみのあまり食を断って断食するかも知れません。

  イエスは「花婿が奪い取られる時が来る」という言葉で、ヨハネの弟子たちに、ご自分の十字架の死を暗示されたのです。その時には、イエスの弟子たちは悲しみのあまり断食するだろうとおっしゃるのです。

  だが今は違う、その時でない。今はいわば喜びの時だというのです。イエスの周りには命と喜びが満ちていたからでしょう。律法から解き放たれた、真理に基づく自由の空気が漲っていたからです。神の子として来られ、やがて死人の中から甦る方の、死と絶望に打ち勝つ力がみち溢れていたからでしょう。

  今の時を婚礼に譬えられるもう一つの理由は、イエスはご自分の周りに、どこにもないような新しい交わりを作り出されていたからでしょう。私の母や兄弟姉妹はどこにいるのか。ここに座って、自分の話を聞いているあなた方こそ皆、私の兄弟姉妹だとおっしゃるような、新しい関係が周りに生まれていたからです。

  イエスの周りには、単に婚礼に譬えられる明るさや陽気さだけでなく、「心の貧しい人たちは幸いだ。柔和な人たちは幸いだ。悲しむ人たちは幸いだ」と言われたように、重荷を持ち、苦労する人たち、内省的で静かに考える人たちも安心して寛いでおれる居場所があったのです。表面的な明るさでなく、底光りするような明るさです。

  教会もただ明るい元気なだけの教会というのは、そういう雰囲気に馴染めない人たちを包みこめない面が生まれます。キリストの体である教会は、気落ちしている人も温かく包み込む大きな器です。悲しみを抱き、心配を抱き、辛さを持って精一杯生きる人や、人生を内省して深く考える人たちも安心しておれる、その人たちにもまことの光が届いている底光りする場所でなければならないと思います。キリストはそういう人たち全てを覆い、包み込んで下さるからです。

  十字架のキリストは大きく両腕を広げて磔にされました。腕を広げさせられて釘づけにされましたが、イエスは世界のすべての人をご自分に迎えるために両腕を広げられたのでもあると言われます。深い傷を負いつつすべての人を包み込んでくださる大きな愛。しかも包み込んで、包みこんだ人たちを垂直の神様との関係に入らせてくださる。それがキリスト教の永遠の実在である十字架です。

                              (2)
  イエスは次に、「誰も、織り立ての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れが一層酷くなるからだ」とおっしゃっています。

  例えば木綿や麻布を織れば、いったん晒さなければなりません。晒さずに服を仕立てればとんでもないことになります。洗濯すれば、すっかり縮んで着れなくなるからです。

  晒(さら)しというのは布の製造過程で非常に大事な仕事です。昔、「奈良晒し」とか「近江晒し」というのがありました。江戸の半ばの高級麻織物です。当時、奈良や近江に大規模な施設があって、十数人から数十人の奉公人や現代的にいえばパートを雇って製造したようです。

  晒しは、織り上がった布を集めて晒しますが、江戸の晒しは、布を広げて灰汁をかけながら晒し、釜で煮て、臼に入れて杵で打ちました。その後、川で洗い、横に引っ張って、竿に掛けて干し、折り畳んで積み上げる。それ程手が込んでいました。布は軽いですが水を含むと相当重いですら、晒しはかなりの重労働で、働き手はすべて男たちでした。

  むろんパレスチナでも織り立ての布はそのまま使えません。水に漬し、揉みほぐし、織り目が詰まってからでないと服には作れません。古い服に織り立ての布で継ぎを当てれば、洗濯したら縮んで、縫い目の所から破れてしまいます。イエスがおっしゃる通りです。

  新しいぶどう酒も同じです。イエスは、「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もダメになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする」とおっしゃいました。

  新酒はまだ発酵途中ですから、どんどんガスが発生します。古い革袋に入れると、ガスが充満して突然革袋が裂けてしまうからです。洗濯すれば、織り立ての布が継ぎ目で古い服を破るのと同じです。

  「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」それは当然なのです。そのようにして美味しいぶどう酒は安心して保存できるし、そのガスが適度に酒に溶け込んで、特別美味な発泡酒にもなるからです。口当たりのいいシャンペンがそうでしょう。

          (つづく)

                                      2012年4月15日


                                      板橋大山教会   上垣 勝



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