歌を歌いながら牢屋へ


                            石神井川の桜
                               ・



                                     主は復活なさったのだ!(下)

                                     マタイ27章1-10節


                              (4)
  話は飛びますが、東ヨーロッパに今は2つの国に分かれましたが、チェコスロバキアという国がありました。1970年代のチェコスロバキアには、共産党政権がキリスト教を厳しく弾圧しました。比較的自由な時があったかと思うと、再び厳しさが増して牧師や神父は息をのんで、密かに行動しなければならなくなりました。公に礼拝できず、家の教会に密かに集まりましたが、それでも密告者がいて逮捕されました。

  その時代に、ジリ・カプランというコンピューター技師がいました。彼は10人の子どもの父でしたが彼も逮捕されました。理由は西ヨーロッパのキリスト教文書を翻訳したからです。妻のマリアは勇敢で大胆な女性でした。彼女は夫が獄中生活する間にも西側と接触続けて、こう書きました。夫は獄中で心理的な苦痛を舐めさせられているが、まだ物理的な拷問を受けていないことに感謝しています。「どうか私たちや囚人たちだけでなく、私たちを迫害し、傷つける人たちのためにも祈って下さい。彼らは私たち以上に祈られることを必要としています。」彼女は、逮捕する権力者たちのためにも祈って欲しいと書いたのです。

  やがて80年代になり、西側の知人が数人、非常に厳しい制約の中でチェコを訪れる機会が生まれました。ただ官憲の厳重な監視の下での訪問です。礼拝では、人々は前に出て聖餐式に与って自分の席に戻るようになっていました。戻る時に一瞬、この西側の人たちの近くを通れるようにしたのです。うまく行けば、例えば「あなたに平和があるように」と一言いえるだけですが、会衆はその一言を貰いたくて近づきました。しかし、官憲は口元をチェックしています。大阪では「君が代」の口元チェックをしているそうで、口元チェックというのはそんな陰険な顔を忍ばせています。

  その中でチェコ人の何人かは紙切れを渡そうとしました。だが彼らは受け取りませんでした。官憲の目が会衆の一挙手一投足に光る中で、余りにも危険で不可能です。その場にいて、チェコの民衆がどれ程恐怖の内に置かれているかが分かったと言います。一言いいたくても言えない時代だったそうです。その時は、沈黙によって彼らと共に在ろうとしたと言います。沈黙による堅い連帯というのがあるのです。

  訪問から5カ月後、チェコから西側に電話があったそうです。数人が1カ月から3年の刑で投獄されたという知らせでした。キリスト教文書を配ったという理由だけでブタ箱に入れられたのです。しかし電話の相手は、投獄された者たちは決して勇気を失っていないことを知らせたかったのです。手錠をかけられ、牢屋に向った人たちは歌を歌い投獄されて行ったそうです。

  「# ノビョーテ・セ、ラジューテ・セ、クリストゥス、スラヴニテ、ズロブ、ヴスタル。 #。」「# 喜べ、たたえよ、恐れることはない。喜べ、たたえよ。キリストは甦られた。#」(「愛することを選択する―テゼのブラザー・ロジェ―」)

  復活の主は一人ひとりに出会われます。主の復活は、このような希望と勇気を与える事件なのです。社会的に政治的に圧迫され、虐げられ、あらゆる苦難を負う人たちに勇気を授け、彼らを解放する出来事でした。

  初代教会の人たちも、そうでした。チェコの人たちにも、そうでした。そして今日の、あらゆる苦難の中にいる人たちも、そうです。社会的、政治的な苦難だけではありません。復活の主は、個人的な悩みで悩み苦しんでいる人にもそこから自由になる力を授けます。自分の性格や自分の姿・容貌・能力に人知れず悩み、苦しみ、それから抜け出ることができないでいる若者たち、抜け出ることができないこと自体を悩んでいる若者たち、若者だけでなく大人たち。また、人生の旅路半ばで思わぬ試練が降ってわき、十字架を背負わされた人たち。あるいは、人生に失敗したという思いで暗い気持ちで生きているすべての人たちに、「キリストは甦られた」という知らせは、新しい希望と勇気を、喜びを授けます。そこからの脱出の糸口を与えるからです。神が私たちに自由を与えて下さり、自分が本当の自分になる道を拓いて下さるからです。

  「喜べ、たたえよ、恐れることはない。喜べ、たたえよ。キリストは甦られた。」主は甦えられて、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこであなた方はお会いできる。

  何と幸いなことでしょう。弟子たちのガリラヤも私たちのガリラヤも同じです。それは普段の生活の中です。普段の暮らしの中で、友達と賑やかに過ごしたり、しかしまたその中で傷ついたり、傷つけられたり、そういう普段の生活においてキリストが私たちに希望を授ける主、希望の主としてお出会い下さるのです。しかも先に行って、私たちのガリラヤで待っていて下さっているのです。

  ペトロは3度イエスを否みました。他の弟子たちはイエスを見捨てて逃げました。その弟子たちすべてに、再びガリラヤでお目にかかれると約束されたのです。イエスは責めも裁きも追及もせず、彼らの新しい未来の開始を約束されたのです。そしてその後2千年経った私たち、そして3千年後、その先の人たちにも、復活のキリストは出会って下さって新しい未来を拓いて下さるでしょう。

  「みょうじゅざいしょう」という言葉があります。「明珠在掌」と書きます。暫らく前にその意味を申上げました。素晴らしい宝が、既に私たちの手の中にあるということです。

  そうです。復活の主は、私たちの所におられるのです。チェコの人たちは恐怖の内に置かれながらこの復活の主に出会いました。自分たちの所にキリストがおられることを知った。そこで出会ったキリストの力がやがて、共産政権の国家をも崩壊させて行ったのです。

  「喜べ、たたえよ、恐れることはない。喜べ、たたえよ。キリストは甦られた。」主の復活は天からの力を授けます。人間の力ではありません。私たちはしばしば人間の力ではどうすることもできないものに出会って、もがいているのではないでしょうか。それで暴れたりもする。私たちの近くでも、そういうことで真剣に悩んでいる人がいるかも知れません。家族や兄弟、また知人たちの中に、どうすればいいのか、頭では分かっている。だがそれができないで苦しんでいる人がいるかもしれません。私たちもその一人かも知れません。しかし、人間の力ではどうすることもできないものに対して、死人の中から力強く甦った復活の主は、天からの力を授けて私たちを導いて下さるのです。

  「キリストは甦られた」のです。「あなた方はこの世では悩みがある。しかし私はすでに世に勝っている」と言われたキリストが、墓から甦って勝利されたのです。だから私たちはただ単純にこの神を愛するのです。左顧右眄することなく、単純にキリストを愛すればいいのです。

  神を愛するために、先ず愛の豊かな人にならなければいけないとか、先ず義なる人になっていなければならないというのではありません。そのような愛も義もキリスト教ではありません。それは古臭い商売人根性の愛であり、自分が勝ち取った自己の義です。そういう義はやがて自分を誇ります。自分が勝ち取った義は、砕かれていない義ですから、必ず誇ります。

  しかし、「恐れることはない。キリストは甦られたのだ。」勝利されたのだ。宝はすでに手の平にある。この勝利は私の義や私の知恵に対する勝利でもあります。私たちに対するその勝利が、私たちを自由にするのです。人間の義に勝利して私たちを自由にするのです。


          (完)

                                      2016年4月8日



                                      板橋大山教会   上垣 勝



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