太陽が1億5千万kmの遠くから私を


                 ポルトガルの友が先程送ってくれたアーモンドの花の写真
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                                     主は復活なさったのだ!(中)

                                     マタイ27章1-10節


                              (3)
  アリマタヤのヨセフの墓ではイエスに会いできないが、今や再びイエスにお目にかかれる場所がある。それは弟子たちの故郷ガリラヤ。彼らの住み慣れた田舎町、漁をしたり、税金を集めたり、普段の暮らしの場で復活のイエスにお目にかかることになる。そこで再会する。

  聖書が語ろうとしていることは先ず、復活のキリストの信仰は頭の中だけのものではなく、現実生活と暮らしの中で一人ひとりがキリストに出会う信仰です。一人ひとりにキリストが出会って下さる。

  今朝、テゼの集いの終わりに若い女性が入って来ました。中国の瀋陽からの留学生で今博士課程にいる人です。お父さんが昨日、高所から転落して脳挫傷の重傷を負ったようで、気が動転してどうすればいいか分からない。で、祈って欲しいと来られたのです。この方の信仰を暫らくお聞きしていて、非常に深い所でキリストに出会っていらっしゃると思いました。そのためでしょう。お母さんに伝道して信仰に導き、今お父さんにも伝道しているということでした。

  復活のキリストはまさに実際の生活において一人ひとりの深いところで出会って下さるのです。キリスト教の教科書や、難しいキリスト教書の中に探しても見つかりません。現実生活において、生きて働いておられるキリストに人格的に出会う。それが真の信仰であるということでしょう。

  トルストイの「靴屋のマルチン」という物語をご存知でしょう。靴職人のマルチンは貧しい靴屋で、何人かの子を儲けましたが次々と失い、今では妻も他界し、残っていた息子も亡くなってしまって、年老いた一人になりました。希望を失って、彼も死んだ家族のもとに行きたいと死を望んでいます。そんなマルチンが友達の勧めで聖書を読み始め、生きる意味を見出し始めますが、ある日、キリストがマルチンを明日、訪ねられるという物語です。

  だがその日に会ったのは、ある家の門番をしている貧しい爺さんとか、木靴を履いた身元の知れない子ずれの母親とか、物売りの婆さんとか、お腹を空かしてリンゴ1個を盗んだ少年とか、街灯に明かりをつけている点灯夫とかいう無名の人たちばかりです。その日、マルチンは彼らを部屋に呼んで温かいお茶をあげたり、励ましたり、注意したり、じっくり話を聞いてあげたりしただけで、結局その日、キリストは来なかったのです。

  夕べになり、マルチンはまた聖書を取り出して暗がりで読み始めます。すると、「マルチン、マルチン」という呼び声がして、「私が分かるかね」という言葉が聞こえて、朝から出会った人が次々登場しては消えて行くのです。

  不思議に思いながら聖書を更に読み進むと、「私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、即ち、私にしたのである」という言葉に出会います。で、あの人たちがキリストだったんだって得心いくのです。

  トルストイも、日常生活でイエスに出会う事が信仰だと考えていたに違いありません。

  私が祈りを強調するのは、祈りは、今、現にここで実在されるキリストと交わることだからです。いくら偉そうなことを言っても、実際にキリストと交わっていなければ信仰は絵に描いた餅です。キリストに語りかけ、キリストから聞き、何よりもキリストご自身が極めて小さなこの存在と現実に交わって下さることを知る喜びです。そこに、既に永遠の命が来ていることを知るのです。

  2階のステンドグラスの部屋で祈っていますと、陽の光が素晴らしいステンドグラスを通して赤や黄や青色の光を私の体の上に落して、光がゆっくり移動して行きます。私はその時、太陽が1億5千万kmの遠くから私を訪れてくれているのを思って嬉しくなります。地球の109倍の巨大な太陽が、塵に等しい私にも惜しみなく光を届けてくれている。私など無視されても仕方ないような小さな無きに等しい存在ですが、こんなものも無視しないで、飛ばさないで光を注いでくれる。私は急に心が熱くなります。それと同じで、祈りの中で、キリストが私を訪れておられるのを知るのが嬉しいのです。十字架に付いた方が祈りの中でこんな貧弱な男を訪れてくださっている。その事実が私を力づけてくれるのです。

  弟子たちはガリラヤに戻って、一人ひとり活ける復活のキリストに出会わなければ、キリストが殺された後ですから、キリストの教えを宣べ伝えることは怖くて到底できなかったでしょう。だが彼らはガリラヤの、自分たちの現実生活の中で活けるキリストに実際に出会ったのです。それが彼らを力づけ、彼らを変えて行きました。ペンテコステ後は見違えるほど変えられて行きます。

  彼らは、イエス・キリストを失って一時は絶望のどん底に叩き込まれましたが、絶望のどん底に神の光が射していることを知ったのです。


          (つづく)

                                      2016年4月8日



                                      板橋大山教会   上垣 勝



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