黙って手を肩に置く


                       リヨンの12世紀のサン・ジャン教会で
                               ・


                                       嬲(なぶ)られるイエス (下)
                                       マタイ27章27-31節


                              (2)
  イエスはここで何をしておられるのでしょう。

  ① イエスは侮辱され、軽んじられ、嬲(なぶ)りものにされました。苦難を負わされ、救助の手がない所に置かれ、孤立し、孤独な者として兵士たちに取り囲まれています。それは、イエスがそのようにして、そのような閉じられた所で、侮辱を受け、軽んじられ、嬲(なぶ)りものにされている者たちの傍らにおられるのでしょう。たとえ密室でどのような仕打ちを受けるにしても、あなたは一人ではない。私は共にいると聖書のキリストは語ります。

  ② 更に、神の子キリストすら侮辱される。いかに正しく、愛の深い者、人を励ます者であっても、このような試みを受けることがあるということ。不条理な中に置かれた人たちと共に、世の不条理をイエスは舐めつくされたのです。

  ヘブライ人の手紙に、「ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になる」とあるのは、この徹底的なリンチ、いじめ、パワハラのことです。イエスは、パワハラを受けている人たちとも必ず共におられます。

  ③ イエスは、このような中でも弱られません。たとえ悪が猛り狂っても、神の存在を信じ、神に委ねて進んで行かれます。人としての誇りを剥奪されても、イエスは人間の尊厳を剥奪されずに持って行かれます。どんなに貶(おとし)められても、貶められません。むしろ貶める者たちが、それによって自らを貶めている姿をご覧になられます。それが本当の主体性です。

  ④ イエスは総督官邸で一言も語られません。沈黙したままです。これは、人間を嬲(なぶ)ること、愚弄し、人を舐めることなど、人の為す罪に対する断固たる否の沈黙です。そのような行為は世界を決して積極的に建設するものではないという、沈黙の否です。

  イエスは砦の中にいますが、砦を越えて、主イエスは虐げられ、酷い目にあわされている人々に連帯し、その肩にそっと手をお置きになるのです。一言も発せず、黙って温かい手を私たちの肩に手を置かれるのです。共に苦しみを味わいつつ生きて下さるのです。

  ⑤ もはや言葉では慰め切れない限界状況が世には存在します。そこでは言葉は届きません。しかしイエスは沈黙のまま傍らに立ち、そっと肩を抱き寄り添って下さる。このような真の神の沈黙の連帯は、愚弄されている人たちを慰め励ますでしょう。イエスはそんな人を決して捨てられないのです。

  大自然の中を、大自然に抱かれて歩いていると、自然の沈黙が私たちの心を癒してくれます。イエスの沈黙はそれに似ています。だが総督官邸でのイエスの沈黙は、大自然の沈黙を遥かに超えて私たちの傷ついた心を温かく包み、深い慰めをもって雄弁に語りかけています。

  「私が顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きを癒し、骨に力を与えて下さる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。」イエスは侮辱されながら、場所や時代を越えてそれらの人たちに連帯されるのです。

                              (3)
  話は飛びますが、バングラデシュのテゼのブラザーたちの最近の働きをお話ししましょう。シンプルな中に、本質を外さず、神に任せてあっけらかんとして笑っています。

  バングラデシュの12月と1月は一番寒い季節。この時期、路上生活の子どもたちのフェスティバルを開きました。ダッカの町は人口1500万人。世界はどこも都市化の波が襲っています。路上生活の子たち230人が1泊2日で郊外の町の身障者リハビリセンターに出かけたのです。そこはテゼのブラザーと35年付き合いがあるユニークな働きをしているヴァレリーさんがいる施設です。

  センターに着くと障碍者たちの笛や太鼓でにぎやかに出迎えを受け、2日間の魅力的な日が始まりました。着くや否や、先ずセンターのスイミングプールに子どもらは歓声をあげて飛び込みました。水は冷たいですが、彼らははしゃぎ回って冷たさなど気にしません。プールから上がると、顔も体もすっかり綺麗になっていました。いつもは駅で寝泊まりして薄汚く汚れている子どもらです。綺麗になるチャンスはどこにもないんです。

  昼食後、礼拝をしました。ムスリムの人がコーランを朗誦し、ヒンズーの人がバガバッドギーターを読み、キリスト教徒がバイブルを読み、最後に美しいベンガルの讃美歌を歌いました。その後はスポーツやゲームや歌やダンスで何時間も楽しみました。

  彼らは何も持っていないのに楽しく生きていて、その姿にはブラザーたちも感心するそうです。ズボン一枚、シャツ一枚を持つだけの着た切りスズメ。今日、夕食にありつけるかどうか分からない生活。でも年上の男の子や女の子は小さい子どもたちの世話をします。寒い冬の夜は、毛布もなく皆くっついて丸まって眠るそうです。

  夜には素晴らしい集いがありました。先ず障碍をもつ人たちが歌い、ダンスさえ披露したそうです。それからバングラデシュの日常の色んな場面を髣髴とさせる寸劇をしてくれました。みな大笑いしてとってもおかしい劇でした。続いて子どもたちもステージに上がって…。

  就寝前に一人ひとりがキャンドルを手にして、センターの構内の暗闇の中を長い行列を作って歩きました。ストリート・チィルドレンのそれはそれは美しい長い行列でした。彼らは灯をともし歌を歌いながら闇の中を練り歩いたのです。

  翌朝はまたゲームやダンスや歌で楽しい時を過ごし、やがて一人ひとり、Tシャツをセンターから貰ったのです。シャツには、「ストリート・チィルドレン・フェスティバル。アムラ・ショバ・ラジャ」とあったそうです。ベンガル語で、「ボクらは王さま、女王さま」という意味です。なんて素敵なTシャツでしょう。王さめ、女王さまになったような人生で最高の日だった筈です。

  昼食後お別れになり、子どもらはバンド演奏に送られて喜びに顔を輝かせて帰って行きました。総勢230人の子どもらは6歳から17歳まで。17歳の子らは女の子たちでした。ところで、この女の子らは元はダッカの駅で路上生活していたストリート・チルドレンで、今は売春をしている女の子たちだそうです。それで、果たして若い売春婦が子どもらに混じっていてよかったかと疑問視する人もあったそうです。

  あなたならどう思います?

  センターのヴァレリーさんは早速疑問に答えて、「彼らがここにいたのは最高に素晴らしいことでしたよ。彼女たちは子どもだった頃、どんなフェスティバルにも決して招かれることはなかったんですから!」と語ったそうです。

  お会いしたことがないヴァレリーさんですが、くよくよしない、明るい、にこやかな顔が目に浮かびます。恐らくヴァレリーさんの言葉にみな胸が熱くなり、本当によかったと思ったことでしょう。そしてみんなも顔を輝かした筈です。最高の2日が薄幸の子らにも授けられた。どんな子にも人生に一日でも生まれてきてよかったと言える満足な日が与えられたい。何と素晴らしい日だったことでしょう。

  苦難を受けている子ら。嬲(なぶ)りものにされている17歳の女の子ら。彼らとも、イエスは2000年の時間と空間を越えて沈黙の連帯をされるのです。十字架の上で生を終えられるイエスの短い一生は、薄幸の人を励まし希望を与える生でありました。

         (完)

                                      2012年4月1日



                                      板橋大山教会   上垣 勝



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