焼き尽くされる私


                       サン・ジャン大司教教会の優雅な塔
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                                           ゲッセマネのイエス (下)
                                           マタイ26章36-46節
       

                              (3)
  その姿をご覧になってペトロに、「あなた方はこのように、僅か一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われたのです。

  「心は燃えても、肉体は弱い。」若い時は若い時なりの在り方で、歳をとると歳をとった時の在り方で、本当につくづく弱さを思います。頭では分かっているが、肉体の弱さに負けてしまう。敗北してしまう。敗北が続くと、もう最初から降参して、自己嫌悪しながら諦めています。悲しいかな、それが生身の常々感じる自分の姿です。皆さんはどうでしょうか。

  目覚めて祈ること、目覚めてキリストの前に留まること。これは単純なこと、シンプルなことです。ところが肉体の弱さのために、それができない。それさえできない。「わたしと共に目を覚していなさい」と、イエスが共にいて下さるのが分かっているのに、こちらは共にいることができない。

  だから不信仰の嘆きが起こります。起こらない人はいません。不信仰の嘆きは信仰を持つから起こるのであって、信仰を持たなければ起こりません。キリストの明るい光に照らされるから、自分は古い人間であり、新しい人間はまだ決して造られていないことを知るのです。だから嘆きが起こるのです。

  だが、そんな私を主は知っておられます。それと共に、キリストへの私たちの愛も知っておられる。ペトロのようなことを申しますが、不信仰なのですが、キリストを慕い、キリストを思う愛も持っていることをご存知で、それが小さいからと言って無視されないのです。テゼのこんな歌を訳してみました。歌ってみます。「#わたしのすべてを、知っておられる主よ。あなたへの愛を知っておられる主よ。おお、おお~#」。ですから、睡魔も、臆病も、不信仰も、何者も主の愛から私たちを引き離すことはできないのです。

  むろん教会はいつの時代にも、主イエスと共に目覚めていなければなりません。地の塩、世の光である教会は目覚めているべきです。ところが教会もまた眠りこけるのです。そして、主イエス唯一人が目覚めておられるのです。

  ですから、自分の弱さに負けてはならないのです。いや、たとえ負けても、既にイエスにおいて救いは確立しているという事は事実であり、それは山のごとく揺るぎません。だから、キリストの揺るぎない土台に立って、負けても、転んでも、そこから再出発して行くのです。

  ルカ福音書を見ると、イエスは、ペトロに向って、サタンはあなた方をふるいにかける。だが、わたしはあなたの信仰がなくならないように祈った。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。イエスの祈りがあり、それと共に、「立ち直ったら」と言って下さるから、私たちは再起できるのです。

                              (4)
  イエスは2度目に、また少し離れた所に行って、祈られました。「父よ、わたしが飲まない限り、この杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

  イエスは目前に迫る苦難を、「わたしが飲まない限り、この杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と言って祈られたのです。十字架と死、神に呪われ、捨てられる。これを飲まぬ限り過ぎ去らないのなら、苦き杯を飲み干しますと。

  イエスはご自分の全存在、実存のすべてを掛け、自らの尊厳を掛けてそれを引き受け飲み干される。そうでなければ、人間の罪、原罪の問題は解決がつかず、人と神の関係が回復されないのでしたら、「あなたの御心が行われますように。」イエスは神に全く委ね切られるのです。100%完全な服従です。神のみ旨が地上に実現するために、すべて引き受けようとされるのです。人間が解決できない原罪に直面し、それを担って、火だるまになって罪に決着をつけようとされるのです。

  ところが再び戻ってみると弟子たちはまだ眠っていた。イエスは祈りの戦場で油汗を流して苦闘の戦いをしておられたのに呑気なものです。酷く眠かったとはいえ睡魔に勝てなかった。

  しかし、イエスはそれらもすべてご存知です。私たちのすべてをご存知です。信仰の薄さ、肉体の弱さ、心の狭さ、愛の冷たさ、薄情さ、それら、私のすべてを悉く知っておられるのが主です。しかも、そんな者が、キリストへの愛を持っていることも知って下さっているのです。

  イエスは、「3度目も同じ言葉で祈られた」とあります。「3度目も同じ言葉」ということの中に、その祈りが真実であったことが意味されています。口からの出まかせでなく、神に最善を尽くし、全身全霊をもって祈られたということです。

  祈り終わると、まだ眠っている弟子たちを起こして、「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切るものが来た」と語って、頭(こうべ)を上げ、敢然と進んで行かれたのです。意志的な敢然たる歩みです。この歩みは、全世界の人たちの罪を一身に引き受けることを象徴しているでしょう。全ての人の罪を一身にかぶって、神のもとへと担い、それを十字架に磔にして滅ぼすためです。

  これは、自分の手では決して救う事ができない人間。むしろ自分を救おうとして、的外れなものに向い、的外れな者になり、的外れなもので代用して威張ったり慰めている私たち人間。罪に罪の上塗りをするしかない人間、救いにおいて無能である人間を、イエス・キリストにおいて、救い出すためです。

  キリストが犯罪人として私たちの代わりとなって呪われて死んで下さる。キリストが私たちに代わって呪われた者として十字架に就き、審判を受けて下さる。そのことによってもはや、私たち人間に対する審判は繰り返されることはあり得ず、繰り返される必要がない。原罪を持つ、罪人としての人間は、ゴルゴタで死んで十字架から降ろされたあの方において、埋葬され、抹殺され、消滅するのです。(K.バルト)

  その事のために、イエスは「さあ、立て、行こう」と言われたのです。これは人類すべてのための、命を与える、愛の「さあ、立て」です。

  祭壇で犠牲に捧げられた動物が火に焼き尽くされて炎となり、天に昇って、もはや存在しなくなるように、神の愛の火で焼き尽くされ、その罪を取り去られる。私たちの手では決して取り除くことができない罪を、キリストはご自分の死と共に、ことごとく焼き尽くす、その事のために進まれるのです。

  十字架で起こったのは、罪の人間の抹殺ということです。罪の私たちの葬りです。そのような出来事こそ、神がキリストに対してなされた裁きの判決であり、私たちに対する恵みの判決、憐れみの判決、愛の判決です。

      (完)

                                      2012年3月25日


                                      板橋大山教会   上垣 勝



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