死ぬばかりの悲しみ


                  ライオン、いや、リヨンの中央公園ベルクール広場でした。
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                                           ゲッセマネのイエス (上)
                                           マタイ26章36-46節
       

                              (1)
  教会の暦では今は受難節、レントの時期です。毎年異なりますが、今年は春まだ浅い2月22日の水曜日から、4月7日の土曜日まで、日曜日を除く40日間です。ですから受難節は四旬節とも申します。来週は受難節の最後の週、受難週を迎えます。受難節が明けるとイースター、復活祭です。今年は4月8日で、イースターの朝は、桜が満開の朝になるかも知れません。皆さんがお植え下さったチューリップも庭一杯に咲き誇るかも知れません。

  さてこの受難節に、先程の聖書は、「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、『私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた」とありましたが、ゲッセマネのイエスの祈りからご一緒にみ言葉を聞きたいと思います。

  ゲッセマネゲッセマネの園とも言われますが地名です。エルサレムの東、谷一つ隔てた山の中腹にある、2千年後の今もオリーブが沢山植わっているオリーブの園です。

  イエスは他の弟子たちを園に残し、ペトロとゼベダイの息子2人を伴って祈りに行かれましたが、「その時、悲しみ悶え始められた。そして、彼らに、『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい』」と言われたとありました。

  「悲しみ悶えた」とありますが、イエスは私たちがよくするように、ご自分のために悲しんでいられるのではありません。自己憐憫でなく、この世の罪のためです。今、直面されるのは原罪と言っていいでしょう。人間の持つ根源的な罪の解決のためです。

  弟子たちといえ、なぜこんなに弱いのか。罪に振り回され、イスカリオテのユダはやがて裏切り、ペトロもやがて「私は知らない」と言うことになるのか。人の弱さ、臆病。また律法学者や長老、祭司長に代表される人間の妬み、無意味な闘争心、神を仰がず自分の力や権力を仰ぐこの世の宗教者たち。妬みと共に責任転嫁と聞く耳を持たない傲慢な態度。受難の出来事には、それらのどす黒い罪が錯綜し寄り集まり、イエスにドッと押し寄せています。神の子を殺そうと企む世の支配者。その全てのものへの悲しみであり、嘆きです。

  「わたしは死ぬばかりに悲しい。」誇張ではありません。神はこの世を愛されました。だがこの世は、自分を救おうとして、自分を捨てることができない。朝に萌え出て夕べに枯れる草のように、枯れる存在なのに、一旦権力を握ると何故か醜いほど死守します。オリンパスの重役たちも、年金資産を1千億円も消失させたAIJの社長も、東電の社長なども実に悲しい程です。しかし彼らだけでなく私たち人間の罪の姿を、死ぬばかりに悲しまれるのです。誇張ではありません。

  実に人間は不思議です。一旦息を取れば、どんな実力者ももはや蠟人形のように力を発揮しません。だから秦の始皇帝にしても、エジプトのクフ王アブシンベル神殿のラメセス王にしても、来世までも権力を持とうと巨大な墳墓を造りました。

  イエスは、祈りのために3人を連れて行かれました。そして彼らに、「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃいました。「私と共に」が、重要です。今、何が起ろうとしているのか。何に直面しているのか。戦うべきものは何か。事柄の真相を、自分と共に目覚めて、目に留めていなさい。あなた方だけではない。私が目覚めて事の本質に直面し、目覚めているから、私と共に目を覚ましていなさい。こう命じられたのです。

  もう一度申しますと、世の不信仰、不信頼を悲しみ、苦しまれたのです。誇張でなく死ぬばかりに悲しみ、苦しまれたのです。ノアの時代に地上に悪が満ち、主は人を造ったことを悔い、「心を痛められた」と創世記にあります。イエスは人の罪と悪に心を痛め、わが事として、誇張でなく悲しまれたのです。人間を真に愛する故の痛みであり、悲しみです。

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  そして、「少し進んで行ってうつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」

  大地にうつ伏せになってということでしょうか。大きな岩かどこかにうつ伏せになり、寄りかかってということでしょうか。確かに大岩に寄りかかって祈る有名な絵があります。まるで神に寄りかかるように、そこに寄りかかって祈られたのでしょうか。

  「この杯を過ぎ去らせて下さい」とは、十字架と死の杯です。十字架刑は神から呪われ、捨てられることを意味していましたから、「この杯」を飲み干すということは、神から捨てられるという最も苦き杯も含むでしょう。

  いま受けようとしている試練の苦杯。それを免れさせて下さい。だが、これもご自分のためではありません。弟子たちのため、世のためです。なぜなら、イエスの十字架と死、十字架上で呪われることがなくても、人間の罪の問題が解決されるなら、それに越したことはないからです。

  注意を要しますが、苦しみを逃れさせて下さい、苦難を回避させて下さいではありません。弟子たちとこの世のためなのです。できる事なら、イエスの十字架と死がなくても、世の原罪の問題が、世自身の手で解決され、争い、裁き合い、妬み、殺意、傲慢、弱肉強食、自己中心、あらゆる罪を人間自身の手で克服して、世に平和を確立できるならそれに越したことはありません。

  だが、それができないのなら、御心のままに、この私をお用い下さい。母マリアが、「お言葉通り、この身になりますように」と申しました。2階のステンドグラスはその場面です。日本にはまたとない出来栄えの作品を作って頂きました。イエスはだが、母マリアが語った言葉の、そのもっと深い所から、ご自分の身に世の一切の罪を引き受けるために、「わたしの願いではなく、御心のままに」と語られたのです。

  ルカ福音書を見ると、イエスは、「いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」と記されています。ゲッセマネの園はオリーブが栽培され、季節が来ると園のあちこちで油絞りが行なわれました。オリーブの実を絞れるだけ絞って油をとります。お風呂でタオルを絞るのとは違います。もっともっと強く絞ります。私は歯磨きチューブの最後の最後まで絞って、出ないのにまだ絞っています。冗談はそれまでにして、イエスの顔から、油のような汗が滴り落ちたのでしょう。誇張でなく、祈れるだけ祈り、すべての力を出し尽すまで人間の救いのために真剣に祈られたのです。

  イエスガリラヤ時代から、律法学者やファリサイ人たちから律法を破る者としてつけ狙われ、「どのようにイエスを殺すかと相談されて」いました。律法学者、ファリサイ人、祭司長、長老たちなど当時の宗教者たちは、何とかやっつけ、民衆の間に広がらないように、出来れば抹殺しようと企んでいました。宗教は悪くすると、得てしてこういう類いに堕落して権力を振るいますが、イエスの立場にもし私たちがいれば、既に満身創痍、傷だらけになって疲れ果て、逃げ出していたかも知れません。

  それにも拘わらず、御心ならばその通りにと語って、イエスは十字架と死を避けられなかったのです。そして最後的に、父なる神の決済に委ねられました。それが、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」この祈りでした。父なる神に一切を委ねられたのです。

  イエス・キリストは神です。それにも拘らず、ここでは子なる神として、父なる神にすべてを委ねられたのです。

  それから弟子たちの所に戻って見ると、何と弟子たちは眠っていたのです。弟子たちとこの世のために戦場のような祈りの戦いをしておられたのに、当の弟子たちは無責任に口を開けてか、鼾をかいてか熟睡していた。

      (つづく)

                                      2012年3月25日


                                      板橋大山教会   上垣 勝



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