相手から卒業する


                      リヨンを流れるもう一つの川、ソーヌのほとり
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                                           砦(とりで)の塔 (下)
                                           詩編94篇1-23節
          

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  20節、21節は、この勝ち誇る者、傲慢に語る者はどういう者か、更にはっきり語られます。こうありました。「破滅をもたらすのみの王座。掟を悪用して労苦を作り出すような者が、あなたの味方となり得ましょうか。彼らは一団となって神に従う人の命を狙い、神に逆らって潔白な人の血を流そうとします。」

  彼らは王座に就く者たちであり、支配権を握る者ら、時代の勝者たちで、掟や法律をも悪用して一団となって潔白な者らを倒そうとし、大阪府大阪市で起こっていることを思い起させます。やもめや寄留者、みなし子、一般民衆を苦しめ、息の根を止めようとする者たち。神の法によって正しい裁きをせず、法を曲げる者らです。

  その中でこの信仰者は言います。「主は必ず、私のために砦の塔となり、私の神は避けどころとなり、岩となってくだいます。」

  砦の塔は、砦の中で最も堅固に、頑丈に建てられる場所です。それは見張り台になり、戦いの最も激しい激戦地になり、やがては勝利のラッパが鳴り響く場所です。この信仰者は、主が私の最も信頼できる所となり、私の闘いの中心となり、勝利の場所になって下さる方であると、信頼を寄せるのです。

  先程のマタイ福音書10章16節は、「私はあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と語っていました。イエスの言葉です。英語の聖書では、「聞け」という言葉が先ず言われます。しっかり心を留めて聞きなさいというのです。

  狼の群れに羊が取り囲まれれば一たまりもありません。誰も逃げることはできません。必ず捕まり餌食になります。貪欲な彼らは決して逃がしません。血祭りに上げて喰い尽すでしょう。

  だがイエスは、遣わすのは私だとおっしゃっているのです。「私」という言葉が、ここでは特に強調されています。私が遣わすのだから決して恐れるな、怯えるなというのです。私があなたをそこに置くのだから、必ず守られると言うのです。

  だから、「蛇のように賢く」あれ。ずる賢く、狡猾であれではありません。賢明で、沈着であれ。機会をよく見て、好機を見逃さない在り方です。公明正大であれ。しかも「鳩のように素直で」あれ。たくらみなくむしろ無邪気であれ。英語訳は「穏やかであれ」と訳しているものがあります。挑発せず、一点の悪意も持つな。また根に持つな。すなわち、一切を神に委ねよ。天の父に委ねよ。心を平和にせよ。安んじよ。

  色んな問題に取り囲まれるとパニックになります。そんな時こそ、心に平和が必要です。穏やかにならねばなりません。

  主は私の「砦の塔」とは、そのような絶対に信頼できる方だという確信です。神への絶対の信頼。

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  しかし旧約のこの信仰者は、そこから一歩出ます。逸脱です。「彼らの悪に報い、…彼らを滅ぼし尽して下さい。」最初に「報復の神よ、復讐の神よ」とありました。そして最後に「彼らを滅ぼし尽して下さい」という所まで行きます。

  彼らはユダヤ教徒ですが、キリスト者はこういう祈りをしてもいいのでしょうか。すべきではないのでしょうか。「不当な目にあわされ」、虐げられ、傲慢な態度を取られ、勝ち誇った態度に出られる。その鼻持ちならない態度に一矢報いてはならないのでしょうか。

  そのような中でも、イエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われます。ただ、祈れと言うのですから、彼らの悪を、不正を、祈りの中で神に訴えていいのです。心の中の思いを思いの丈、ぶつけるべきです。ぶつけうる方があるのがいいのです。主はどんな祈りも受け留めて下さる。それを抑制すべきではありません。ただそれは自分の部屋に入って、個人の祈りの場です。そこで神はお聞き下さるでしょう。

  また、ぶつけると共に、神に一切を委ねるのです。でなければ、仕返し、報復の連鎖に嵌(はま)りかねません。神に一切を委ねる時、赦しが起こります。その時、心に平和が訪れます。喜びさえ生まれます。相手から卒業します。

  この詩編で確かなのは、たとえ王座についても、人を愛し、励ますことのない王座、「破滅をもたらすのみの王座」というのがあるということです。私利私欲、権力の座を守ることだけ、平和を作り出すことのない王座は、神の味方にはなれないし、神と共に働くことは出来ないということです。

  反対に、神によって立てられる王は、平和を作り出し、人々に喜びと自由を作り出し、職場に、家庭に、社会全体に生きる喜びを作り出すということです。

  私たちは一国の王ではありません。しかし、私たちが生きている小さな所において、そういう平和を作り出すために召され、遣わされているのです。男も女もです。キリスト者は、王的な者として生きるように召されているのです。愛深い王、慈しみ深い王です。敵対する者を滅ぼし尽し、復讐し、仕返しするのでなく、彼らも神の愛と義に気づかせて下さいと執り成し、祈る王です。

  「弱い人のために正当な裁きを行ない、この地の貧しい人を公平に弁護する。」また、「王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ、あなたの貧しい人々を裁きますように。」そのことこそ貴いことであり、今日も真に待ち望まれていることであり、そこに本当の王的な誉れがあると言っていいでしょう。

  神の救いは仮定の事柄ではありません。キリストの救いは仮説ではありません。幻想でも理想でもない。それは現実です。キリストを信じる者は、滅びぬ者であり、永遠の命を所有しているのです。神によって義とされたのです。神に受け入れられているのです。「見よ、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなった」のです。目を開けて見れば、新しい神の光が射しているのです。神によって義とされ、神との平和を得ているのです。そのことには何の危なっかしさもない事実です。信頼できることです。すなわち、何ら疑いのない信頼に足る「砦の塔」なのです。

  神は信じる者たちを、信頼に足る「砦の塔」になって守り、避けどころとなって下さるのです。

            (完)

                                      2012年3月18日


                                      板橋大山教会   上垣 勝



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