恐れや鬱の解決の第一歩


                   リオンの旧市街の3階の窓辺にこんな犬の彫り物がありました
                               ・



                                         あなたは誇るべき冠 (上)
                                         Ⅰテサロニケ2章17‐19節


                              (1)
  テサロニケの信徒たちに宛てたこの手紙は、「友情の古典書」と呼ばれています。1章、2章、これ迄の所にも友情を示す言葉があちこちに見られましたが、今日の個所では、テサロニケ教会を再び訪ね、彼らを力づけ、励ましたいというパウロの気持ちが包まず述べられて、友人たちへの深い愛情が感じられます。手紙を受け取った人たちは、パウロの熱い思いに強く心打たれたでしょう。

  パウロは、深く相手を思いやり、彼らに心から寄り添っています。イエスは、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」とおっしゃいましたが、彼はお返しなど求めず真に愛し寄り添っていると言えます。

  その友情の言葉は次の3章に続いて行きますが、今日の最後で一つの盛り上がりがあります。「私たちの主イエスが来られる時、その御前で一体あなた方以外の誰が、私たちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実にあなたがたこそ、私たちの誉れであり、喜びなのです。」何と言う称賛、何という信頼、何という友情の連帯でしょう

  誰でも手紙を開封して、一瞬に心躍る思いになったことがあるのでないでしょうか。もし私たちがその時、その場にいてその人の顔を見たら、パッと顔が明るく輝いくのに気づいたでしょう。それまでは、どんな暗い思いを抱いていたか分かりませんが、今、見違えるばかりの笑顔に変わって、先程までの表情は全くなくなってしまっているのに驚くでしょう。

  テサロニケ教会の人たちは、19節、20節を目にした時、今もなお強く信頼してくれているパウロに勇気を与えられたでしょう。まるで、強く、雄々しくあれ。恐れてはならない。うろたえてはならない。あなたは見捨てられることも、見放されることもない。たじろいではならない。これは、モーセの死が近づき、委縮しているイスラエルの民にモーセが語った言葉ですが、テサロニケ教会の人たちも、こう言われているのを感じたでしょう。

  パウロはテサロニケの町を去った後も、迫害を受けても堅く信仰に踏みとどまり、苦しめられながら信じ続けている彼らを見捨てなかったのです。

  少年たちは何かやんちゃをして育ちます。私はよく、軒に巣を作っている雀の雛を捕って育てました。うまく育たず、何度もかわいそうな事をしました。時々、雛が巣から落ちることもありました。すると雛は庭の隅に隠れてチュンチュン言っていますが、親鳥は必ずそれを探して、その場所で子育てをします。決して見捨てません。その雛を捕まえて籠に入れて縁側に近い部屋に置いていると、親鳥は勇敢にも部屋まで入って来て子どもに餌をやっています。

  パウロは決して彼らを見捨てないのです。テサロニケは大都会ですが、そこに生まれた小さい信仰の群れを彼は大事にしました。彼らに寄り添わないなら異教の大都会に埋没してやがて信仰を失うでしょう。彼はそうならないようにと励むのです。

  彼は、「顔を見ないだけで、心が離れていたわけではない」と語り、「顔を見たいと切に望んで」いたと書いています。私たちは顔を見るだけで、お互いに無事を確認して喜び合うことをしばしば経験しています。孫たちがこんなに近くに住むとは思いませんでした。2、3日置きに来ますが、それがちょっと伸びると顔が見たくて仕方なくなるんですね。恋人みたいに切に会いたくなるんです。でも、同じ家に住んでいても、親子でも顔を見合せない。口も利かない。部屋に閉じこもりになっている。それは本当に悲しく、胸が引き裂かれます。人の世に生きていると、こんな悲しみが不意に襲ったりします。

  パウロがテサロニケを訪ねても、信仰から離れて「顔を合わせない」人が出れば悲しいことです。だが顔を見て無事を確認し、祈り合う。その事をしたかったのでしょう。顔と顔を合わせて相見る。そして祈り合う。信仰者の間においてこれが大変大事です。

  それで彼は、「1度ならず行こうとした」のですが、「サタンによって妨げられました」と書いています。具体的には何を指すか分かりません。「サタン」とは、人と人を引き離し、神から人を引き離すもの。分裂させ、引き裂き、仲違させる力を聖書では言いますから、パウロの健康問題、敵意を持つ人たちの妨害、その他、テサロニケとパウロを引き裂く何かを指しているのでしょう。

  「サタンを見つめ過ぎると、怖くなる」と言います。サタンは委縮させ、おののかせ、勇気を失くさせます。うつ状態にさせる力です。

  キリスト教信仰はごく単純化して言えば、サタンから目を離してキリストに目を向けることです。この世の力から一旦、目を離してキリストに目を向ける。すると恐れが消えて行きます。鬱が回復したりします。正常な状態が戻って来る。キリストに目を向けることは、解決の第一歩です。

                              (2)
  「サタンに妨げられました。」この「妨げる」という言葉は、子どもが親から引き離され、孤児とされることを指す言葉だそうです。

  去年、和歌山の集中豪雨で幾つかの村落が孤立しました。ある村落は、山を背にして川に面し、逃げ道は上流か下流に行くかしかありませんでした。その両方とも濁流で飲まれ孤立無援の状態になりました。しかもその村が孤立していることを町役場も誰も知らなかったと言います。

  パウロは、テサロニケ教会が全く孤立して、誰もそのことを知らない、そういう状態に決して置かれてはならないと考えるのです。だが彼とて、刻々迫るテサロニケ教会の危機にかかわらず、一時は、手をこまぬいて見るしかなかったのです。短期間だったでしょうが、耐え難いほどの長期間に感じられたでしょう。

  で、彼はいたたまれなくなって、それが3章1節の「もはや我慢できず」と書かれていることです。「もはや我慢できず、私たちだけがアテネに残ることにし、私たちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。」パウロの片腕であるテモテを遣わした。

  まさにこの書は「友情の古典書」と言えます。ここには信仰の強靭な連帯、堅い信頼の絆があります。

  テサロニケの信徒への手紙は、現存するパウロの手紙の中で最も早い、西暦50年ほどに書かれました。彼は、これから多くの手紙を書き、あちこちに伝道し活動していきます。

  彼がここでしていることは、連帯し、配慮し、愛し、共に生きることです。彼は自分を出し渋らず与えたのです。

  ある人が言っています。私たちは世に生まれて来た時、ただ与えられるだけの存在だった。両親から、兄弟、祖父母たち、友人、知人、周りの大人たちから。ある人は豊かに、ある人は少し、またある人からは惜しみつつ、ある人からは気前よく与えられて育って、やがて人生の絶頂期に達した。その時、色々のものを手に入れ、色々なものを所有し、これが人生だと考えた。手に入れたもの。それが人生の実りだと考えた。

  だが、私たちはいつか世を去る時が来る。その時、「私たちの人生は、どれだけ与えて来たかによって成っていると知るだろう。」

  パウロはこの時はまだ若かったが、自分を差し出し、連帯し、共に生きるために渋らず心から与えたのです。それがここにあるテサロニケ教会との連帯の姿です。

            (つづく)

                                          2012年2月19日



                                      板橋大山教会   上垣 勝



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