人の言葉か神の言葉か


                       リヨンで食べておけばよかったケーキ
                               ・



                                        人の言葉か神の言葉か (上)
                                        Ⅰテサロニケ2章13-16節


                              (1)
  パウロはテサロニケの信徒たちを誇らしく思っていました。そのことは手紙のあちこちに認められます。来週取り上げる19節には、あなた方は私たちの「誇るべき冠」であると書かれています。彼にとってこの教会は、冠のようにかぶって誇らしく歩きたくなるようなものだったかも知れません。

  マケドニア州の首都テサロニケに播かれた福音の種は困難な中で育ったのです。14節に、「兄弟たち、あなた方は、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなた方もまた同胞から苦しめられたからです」とあるように、石地にも、茨の地にも落ちた種がありましたが、良い地にも種は落ち、良い地はキリストの言葉に堅く踏みとどまり、決して離れることなくみ言葉に信頼して生活しました。その信仰の働き、愛の労苦、忍耐と希望をもって生きる姿がマケドニア州、アカイア州などギリシャの諸州の信者を励ましたのです。1章では既にそういうテサロニケ教会の姿が記されていました。

  日本でも暫らく前まで青年たちによく読まれたフランスのシモーヌヴェイユという女性思想家が、「じっと忍耐しつつ待ち望むこと、これが霊的生活の土台である」と書いています。単に希望的観測をもって自分を騙し騙し忍耐するのではありません。確かな主を待ち望みつつ忍耐するのです。希望を持って忍耐する。これが霊的、信仰的生活の土台だというのです。

  ある人はこの言葉に触れて、「最大の誘惑はうんざりして、どうでもよくなること」、そして「恨みがましくなること」だと言っていますが、本当にそうだと思います。そうなると「投げやりな思いに負けたり」、破壊的になったりします。

  それがここのところ何回かお話しした、自分の中の闇に耳を傾けるということ、闇に語らせるということでしょう。それに語らせると、とんでもない方面に行くのが人間の弱き姿です。そうではなく、私たちの中で輝いておられるキリストに耳を傾けねばならないのです。キリストに語って頂かねばならないのです。すると望みが湧いてきます。

  テサロニケの信徒たちは迫害の中でも、恨みがましく、投げやりにならなかったのです。却って、皆に希望を与える存在として生きたのです。テサロニケの信徒たちから、今日私たちは何を学ぶか。それは一重に社会の中で希望を与える存在になることでしょう。

  パウロはテサロニケの信徒たちの在り方に触れて、今日の個所で、「このようなわけで、私たちは絶えず神に感謝しています」と述べるのです。テサロニケの信徒たちは、パウロにとって「感謝」以外の何ものでもなかった。

  自分が洗礼を授けた人、信仰に導いた人が、信仰において育っているのを知ること以上に喜びはありません。たとえ有名になっても、信仰から逸れてしまっては喜びが半減します。反対に、たとえ社会的に出世したりしなくても、信仰に立ち、試練にも拘わらず良い戦いをしていることを知るのは本当に喜びです。そこに希望の芽吹きがあるからです。

  先ほど見ましたら、教会の狭い前庭で、いつの間にかユキヤナギの小さな芽が芽吹いていました。思わずちょっと嬉しくなり、希望を感じました。一番寒い厳しい試練の時期に、信仰に立ってよい戦いをしているのが希望の芽吹きとなるのも同様です。

                              (2)
  なぜテサロニケの人たちは堅く信仰に立ち、人々の模範となるまでになったのか。パウロは、「なぜなら」と語ります。「なぜなら、私たちから神の言葉を聞いた時、あなた方は、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実それは神の言葉であり、また、信じているあなた方の中に現に働いているものです。」

  過去のことではありません。今、現に神の言葉があなた方の中に働いている。そのことに私は感謝しているというのです。

  彼は、人が語る言葉がどうして神の言葉になるのか、その詳細は語っていません。しかし過ち多く、罪に満ちた、限界ある人間の言葉にも拘らず、それをも用い、その人間を遥かに越えて語られる神がおられます。その神に耳傾けようとすると、聞こえて来るということです。聖人の唇を通してだけでなく、賤しい人の唇を通しても、神は語られるのです。聞く耳ある者は、神の言葉を聞くのです。神の霊は、いわく言い難い力をもって罪ある人間さえお用いになるのです。

  先週、神の恵みは、「にも拘わらず」とか、「それでもなお」という形で表わされると申しましたが、それと関係しています。神は、火中のクリを拾うように、色んな罪を含む人の言葉からも、神の言葉を拾い出して私たちに届けられるのです。バプテスマのヨハネは、「神は石ころからさえ、アブラハムの子らを起こすことがお出来になる」とさえ語りました。そう、石をも用いられます。

  前の教会にKさんという方がおられました。35年間紳士服の仕立てで生計を立てて来られましたが、オイルショックの頃から、地方では県庁所在地でも洋服の仕立てが少なくなり廃業に追い込まれました。

  それで、その後は染色工場に勤めて70歳代まで働かれました。染色作業というのは締切った40度程の高温多湿の建屋内の作業です。しかしKさんは性来の工夫家でしたから、長く用いられました。

  反骨の魂を持つ人で、軍国主義の時代は苦労されたようです。天皇のために死ぬのはまっぴらと考えるほど、戦争の実態を知っていたようです。

  K家にキリスト教が入ったのは、奥さんからです。次に娘さんが信仰に入り、息子さんも洗礼を受けました。ご主人は反骨精神旺盛ですから、家族でただ一人無神論を通していました。何が何でも教会などに行かないと反発していた訳です。

  ところが、娘さんが離婚で出戻りって一緒の生活でしたが、娘さんはMさんと言いますが、ノイローゼで色々問題を抱え、人生の悩み、苦しみ、挫折。精神的に追い詰められ、中々そこから脱せないでいました。

  私たちはそんな所に赴任しました。20年以上前です。娘さんはその頃、化粧品のセールスや食品試食販売のセールスをデパートでしていましたが、色んなトラブルがあり、ご自身の問題も抱えて職の安定しない暮らしでした。そんな中で私たちはカウンセリングをしたり、一緒に祈ったり、毎週電話相談を受けたりという有様が数年、いや、もっと続きました。

  ところが段々精神的に安定して来られて、やがて婦人物の下着のメーカーで長く働けるようになり、人間関係も落ち着いて来られたのです。

  かつてのMさんを知る人は、本当に驚きました。教会にむろん毎週通い、聖書にしっかりと聞き入る方でした。日々祈りの祭壇も持っておられました。日々の祈りの祭壇というのは別に家に祭壇を作るわけではありません。勤めに出る前に必ず神の前に出て、数10分聖書を読み祈る。即ち、神の言葉を聞いて一日を始めるのです。人の言葉でなく、自分に語られる神の言葉です。それを先ず一日の初めに聞く。それが祈りの祭壇です。それを何年も続けられました。今もしておられるでしょう。その中で次第に病気が軽くなり、やがて殆ど癒されるばかりになり、明るく元気になられたのです。

  こうして彼女は精神的にK家の中心的存在になられました。経済的、能力的、この世的な意味ではありません。皆に命令するのではありません。静かな方です。彼女が信仰に堅く立って生きていることが一家の支えになったのです。実に不思議な現象でした。

  その変化を最も驚きをもって受けとめたのが、頑固この上もないお父さんのTさんでした。こうしてお父さんがやがて導かれたのです。70歳の時に洗礼を受けられ、こう書かれました。「娘の病が治ったのも、絶対的な神の主権によってであり、人間には出来ないものも神様には出来ると、私はみ言葉に深く感動しました。それにより私は変えられ、今までと違い、億万円出されても教会に真の心で足を運ばない私が、足を運ぶようになりました。」

  ノイローゼと試練の中で、人間の言葉としか言えない罪深い貧しい私の説教に拘わらず、そこから神の言葉を聞きわけ、神の言葉に励まされていた娘さんが、そして日毎に先ず神の前に出て自分に語られる神の言葉に耳を傾け続けた娘さんが、やがて思いも掛けずお父さんを信仰に導いたのです。娘さんの病気さえ用いられ、ご家庭の精神的大黒柱になり、家庭が変えられていったのです。すなわち父子共に神の言葉を聞いて変えられていったのです。

  人の言葉を人の言葉として軽く聞く、聞き流すのでなく、神の言葉として信仰を持って聞くことがどれほど大いなることをなすか、私は驚かされました。神の言葉を聞きとる訓練と言ってよいでしょうか。だが聞きとる訓練は実に単純です。それは、ただ単純に、子どものように神の言葉として聞くこと以外ではないのです。

  ドストエフスキーはシベリア流刑になりました。ある田舎の貧しい司祭のいない教会に、信仰を捨てた無神論の神学生が、村の子どもたちに淡々と聖書に書かれているイエスの事を話していたのです。ところが、無神論者になっていた神学生を通して、彼らが神をはっきり信じるようになったというのです。まさに「神は、石ころからでもアブラハムの子らを起こされる」と言っていいでしょう。ここに、人間を越える神の不思議なみ業があります。

  イエスは種まきの譬えを話されました。種まきが種を蒔いていると、道端や石地や茨の中に落ちた種があった。それらは実を結ばなかったが、良い地に落ちた種は成長して30倍、60倍、100倍になったと語られました。そして「聞く耳のある者は聞きなさい」とか、「良く聞きなさい」と何度もイエスは言われました。種まきの譬え話し自体も大切ですが、この「聞く耳のある者は聞きなさい」と何度も言われていることは大切です。4種類の土地とは、神に聞く耳を持つかどうかの違いです。良い耳を持とうとしなければ、どんなに神の言葉を語られてもだめで、たとえイエスご自身が語って下さっても神の言葉は聞けないでしょう。

  こうしてテサロニケの人々は、ユダヤの神の教会に倣う者となり、同胞からも苦しめられながら主の言葉を輝かすものになったのです。フィリピ教会のように、邪まな時代の只中で、神の言葉を堅く持って星のように輝いて行ったのです。

        (つづく)

                                      2012年2月12日


                                      板橋大山教会   上垣 勝



       ・ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/ 

       ・板橋大山教会への道順は、下のホームページをごらん下さい。
                   http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/