身を引いていては、技は掛からない


           ナチへのレジスタンスのアジトとなった旧市街を訪れる若者たちも多かったです
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                                          母と父のように (下)
                                          Ⅰテサロニケ2章7-12節


                              (3)
  次にパウロは、父親の比喩を使って語りました。「あなた方が知っている通り、私たちは、父親がその子どもに対するように、あなた方一人ひとりに呼び掛けて、神の御心に沿って歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。ご自身の国と栄光に与らせようと、神はあなた方を招いておられます。」

  ここに母親と違った態度があります。本質は同じでしょう。しかし表現が違います。

  「一人ひとりに呼び掛けて、神の御心に沿って歩むように…。」ここに、子どもたち一人一人に呼び掛け、世の数々の試練を乗り越えて来た経験豊かな父として、それぞれと人格的に話そうとする姿です。封建的な家父長的な父親と違って、人格的な個人的な温かい接し方が前面に出ています。

  パウロは、復活のキリストが自分の人格と出会って下さったから、自分も一人ひとり相手と人格的に温かく出会って行こうとしたのです。

  人格的な接し方を言うのは言葉では易しいですが、実際には難しいことです。相手がそれを望まないこともあります。また望んでも、相手の人格、魂との出会いですから、こちらの真摯な態度が問われてタジタジになるかも知れません。しかし恐れる必要はないのです。ここでも「恐れるな。おびえるな」とおっしゃる方がおられるからです。その時は、復活の主が自分の人格にどう出会って下さったかを証しする機会です。ただ、ここで信仰と人間の一番深い所が問われます。

  キリスト教において個が確立しました。神の前で単独者になります。それは、キリストがかけがえない者として一人一人と出会って下さるからです。「一人の人間は地球よりも重い」と言いますが、本来はキリストだけが真にそのように取り扱って下さるのであって、人間にそれを期待してもそのように取り扱ってくれません。しかし、この神と出会う時、そこに地球より重い単独の真の個が確立します。個の確立の源はここにあります。

  先程の詩編に、「歌う者も踊る者も共に言う。私の源はすべてあなたの中にある」とありました。この根源的な源を、キリストにおいて与えられるのです。その時、人からの誉れを求める汚れた思いが越えられるでしょう。「人間の誉れ」(6節)でなく、「へつらい」(5節)でも、「ごまかし」(3節)では更になく、それらを越えたものを目指して生きる。それがパウロの語った、「心を吟味される神に喜んでいただくため」(4節)という生き方です。

  キリストは義人を救うためでなく、罪人を救うために来られました。キリストの恵みは、恵みに相応しくない者に対して示され、罪に満ちた破滅した人間に対する恵みとして示されます。キリストの恵みはいつも、「にも拘わらず」という形で、罪「にも拘らず」私たちにやって来ます。或いは、「それでもやはり」と言う、相応しくない者に「それでもやはり」という形でやって来ます。

  ですから古代の教会に、「かくも大いなる救い主を所有しうるという、幸いなる咎よ」という言葉さえ語られたのです。

  むろん救い主を所有するというのは言い過ぎです。人が所有するのでなく、救い主が私たちを所有して下さるのだし、罪や咎が幸いして救い主を知ることが出来たのだから、「罪や咎は幸いだ」というのは筋違いです。その場合、一歩間違えると別の方向に行くからです。

  しかし、神は罪や咎や災いもお用い下さって救い主を知るきっかけにして下さる。そして罪や咎や災いは、私たちの心の最も深い所を傷つけ、そこに住むものですから、その所で救い主が出会って下さる時、実に深い所からの「励まし、慰め」を授けられるものとなります。

  パウロが、「一人ひとりに呼び掛けて、神の御心に沿って歩むように励まし、慰め、強く勧めた」とあるのはそのことでしょう。パウロはテサロニケの人たちの人格と出会って行きました。それは自分の身を差し出すこと、自分の弱さも、罪も、過ちも、失敗も差し出すことだったでしょう。そうでなければ、深い所からの慰めも、励ましも、また強い勧めも、十分相手の心に届かなかったでしょう。

  以前の教会に、国体でも活躍した柔道4段の師範免許を持つ人がいました。今、88歳ほどですがまだ柔道を教えています。その人がある時、「技を掛けるには、自分の身を引いていては掛らない」と言いました。「自分の身を差し出して、初めて技を掛けることが出来る」と言ったのです。

  これは信仰でも、人生と生活でも真理だと思います。パウロがしているのはそれでしょう。彼は身を差し出して相手に関わって行ったのです。これは伝道においては勿論のこと、母親や父親の子どもの教育においても、職場やその他の人間関係にも通じるのではないでしょうか。

  そしてイエス・キリストこそ、十字架の死に至るまで自分の身を差し出されたから、私たちを救う、救いのみ業を果たすことがお出来になったのではないでしょうか。


           (完)

                                      2012年2月5日



                                      板橋大山教会   上垣 勝


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