母と父のように


       リヨンの地下抵抗組織は迷路のように複雑に絡む中世の建物がある場所で生き続けました
                               ・



                                          母と父のように (上)
                                          Ⅰテサロニケ2章7-12節


                              (序)
  普通は父と母と言いますが、今日の題は、「母と父のように」です。どうして「父と母」でないのかと不審がる方がいらっしゃるかも知れません。私もフェミニストと思われるかも知れないと思いましたが、単純にパウロが書いた順序に従っただけで、特別な意図はありません。

  ただパウロが、「母親がその子どもを大事に育てるように」と、母親の比喩を先に出し、次に「父親がその子どもに対するように」と、父親を後にした所に、興味深いものが潜んでいるように思います。

  ローマ書でも、ガラテヤ書でも、彼は非常に深い信仰的で且つ思想的な手紙を書いていますから、そこからすれば彼は父的なものを優先するのが当然と思えます。更に彼はユダヤ教の中で育ちましたから、家父長的な発想で父親を先ず登場させるのが当然だと思いますが、母親の比喩を先ず出すわけです。

  すると、彼はマザコンであったのでないかと推測されたりします。私はそう思いませんが、「母親っ子」であったかも知れないと思ったりします。

  彼は愛を重視しました。色々な手紙を見ると、彼は思想的ですが、愛の人でもありました。コリント前書13章では、「信仰と希望と愛、これらはいつまでも残るが、最も大いなるものは愛」だと率直に語っています。また、「たとえ山を動かす程の完全な信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」とまで言い切りました。

  ガラテヤ書でも、「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句に」尽きると言っています。

  彼が母親っ子であったということはどこにも確証がありません。ですから、彼の親子関係からここを考えるのでなく、彼はダマスコ途上で復活のキリストに出会ってユダヤ教からキリスト教へ180度の大転換をした時、父なる神や裁きの神を中心とするユダヤ教の父性的なものから、母性的な愛の神を中心とするキリスト教へと一大転換をしたから、母親を先ず譬えにしたと言えるかも知れません。

  ただ彼は母親を比喩に用いた後、父親を比喩に用いたのは、彼のバランス感覚からでしょう。人間社会にはやはり母と父、父と母、この2つの側面が必要です。ソフトな面だけでなく、キリッとした所が人間社会には必要です。信仰でも骨格をなす面がないと、情に流されがちです。

  今は表面の文化です。装飾の文化であり、表層の皮の文化です。お化粧の文化とでも言いますか、骨格を形成する逞しい堅固な文化が育ちません。ナヨナヨして決断が出来ない。情に流されがちです。そんな所から、反対に強面(こわおもて)の、強引なリーダーシップを期待する指導者待望論も出たりします。

  今言った2面性、母と父の面をあれかこれかとして捉えるのでなく、合い補い合うものとして、互いに協力し合うものとして考えることが大事です。競合するものと考えると狭くなります。こういう意味でパウロと言う人は、人間としてもキリスト者としても、優れたバランス感覚を持つ大人であったと言えるでしょう。

                              (1)
  パウロは2章1節から6節までで、テサロニケ伝道での彼の伝道姿勢、その態度を語りました。今日の個所はその続きです。ここでも、どういう姿勢でテサロニケの人たちに当たったかを書いています。

  先ず、「私たちは、キリストの使徒として権威を主張することが出来たのです。しかし、あなた方の間で、幼子のようになりました」と書きました。彼はむろん使徒です。だが使徒の権威、使徒権を振り回すとか、それを発令するといった、上からの目線で教えたり、高飛車に指導する態度を取らなかった。

  むしろ、「幼子」のように、権威をちらつかせず、低い者、謙った者として振舞いました。取り入るためではありません。使徒とは言え、他の人と一緒に主キリストを頭として仰ぐ者です。羊飼いはただ一人です。万人祭司だからです。パウロは、知識の面でも、経験の面でも、信仰の深まりにおいても遥かに深いものを持っていましたが、権威や権力を発動させず、努めて同じ目線で生きようとしたのです。

  ここに、かつての律法主義者の、尊大さを決定的に砕かれたキリストとの出会いがあったのは確実です。

  低くなったために、パウロは軽んじられることもありました。彼は権威がない、使徒ではない、小者に過ぎないと吹聴されることもありました。

  だが彼は権威を振り回さず、愛によって真理を語ろうとしたのです。努めて謙って、膝を突き合わせて対話し、キリストの深い真理を悟ってもらおうとしたのです。彼は対話を避けません。キリストの前で共に真理に導かれるためです。

                              (2)
  ですから、「幼子のようになりました」という言葉の後、急に「丁度母親が子どもを大事に育てるように、私たちはあなた方を愛おしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなた方は私たちにとって愛する者となったからです」と、語ったのです。幼子が急に母親になりますから、ちょっと戸惑うのですが、意味は明瞭です。

  「自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほど。」それ程の母親の真実な愛をパウロは知っていたのでしょう。私が、彼は母親っ子であったかも知れないと申し上げた理由がここにあります。

  私の一番上の兄は肺結核で、27歳で亡くなりました。戦後間もなく、当時は誰にも言えない被差別部落の女性の家で同棲を始めたらしく、その家族からうつされたと母は言っていました。実際はそんなことは特定できません。何年か兄は結核病棟にいました。病棟の裏に炊事場があり、母が毎日食事作りに行きました。病院で食事を出したでしょうが、その方が経費が安かったからかも知れません。苦労の甲斐なく亡くなりましたが、身を粉にして尽くしました。50代の母でした。兄なき後の母はしょんぼりして、見るにいたたまれない程の姿でした。今思うと、ああ言うことは中々出来ないと思います。

  お2人共もう亡くなりましたが、これ迄、自分の命を引き換えに子どもが助けて下さいとイエス様に祈ったと言われる母親を知っています。だがそんな父親にはまだお目にかかったことがありません。母の愛は海より深いと言いますが、今はどうでしょうか。

  パウロは、母親が子どもを育てるように、「命さえ喜んで与えたい」と思うほどに、尽くしたのでしょう。また、「誰にも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなた方に宣べ伝えたのでした」と語っている所にも、母親のイメージがあります。

  「母親っ子」だったからと申しましたが、ただそういうものからだけでは、必ずしもこうはならないでしょう。「命さえ喜んで与えたい」と思うほどと言うのは、これは人から来たのでなく、ご自分の命を喜んで与えて下さった、キリストから来たのでしょう。キリストの中には満ち満ちるものが満ち溢れていますが、その全てを与え尽くして下さった、そういうキリストとの出会いが決定的であったからではないでしょうか。

          (つづく)

                                      2012年2月5日



                                      板橋大山教会   上垣 勝


       ・ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/ 

       ・板橋大山教会への道順は、下のホームページをごらん下さい。
                   http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/