安らかに前進する


                      グリンティンクにあるベートーベンの家の一つ
                                ・



                                          安らかに前進する (下)
                                          ルカ2章22‐35節



                              (3)
  シメオンの時代のイスラエルはローマ軍に占領され、圧制が敷かれ、それを倒そうとするテロ組織もある不穏な時代で、やはり先が見えません。宗教は形骸化し、律法主義が横行していました。

  東日本大震災からまだ1年も経ちません。不況の世界にこの甚大な打撃を受け、私たちの社会も中々先が見えません。日本の失業率は4%台半ばから5%近くですが、アメリカもイギリスも8%台、フランスは9%台、スペインは20%を越します。これは平均ですが、若者の失業は非常に高く大体この1.5倍から2倍です。ですから欧米では若者の15%から20%、中には40%が失業中で、職探しをしています。企業が生き残りのために勝手に首を切って行く。若者たちは、血も涙もない社会を経験しています。これは相当つらいことです。健康なのに何日も仕事がないのは、とても辛いです。

  こんな歌を覚えておられる方もあるでしょう。「おいら岬の灯台守は、妻と二人で沖ゆく船の無事を祈って、灯を照らす、灯を照らす。」今でも歌うと涙が出そうになる歌です。「喜びも悲しみも幾年月」の映画の舞台になったのは塩屋埼灯台です。木下恵介監督。高峰秀子、佐田恵二の映画でした。福島のいわき市灯台です。

  少し前の新聞の短歌欄に、この灯台にまつわる歌が1席になりました。「塩屋埼灯台に灯がともされて土台だけなる街を照らしぬ。」

  去年の3月11日から灯台の火が消えて辺りは真っ暗闇になりました。だが8か月半ぶりに11月30日に再び明かりが灯ったのです。皆、大喜びしました。だが作者は、「塩屋埼灯台に灯がともされて土台だけなる街を照らしぬ。」その重大な事実を見逃しませんでした。

  津波にさらわれて廃墟と化した街の、家々の土台を空しく照らしている。建物が流され、平坦になった荒涼たる光景が目に浮かびます。最近の新聞の短歌の1割以上が原発も含めた震災関連の歌で占められています。いかに人の生活に大きな爪痕を残しているか分かります。国の外も内も悩みが尽きず先が見えません。

  今申しましようにシメオンの時代も同様だったのです。だが彼は、「私はこの目であなたの救いを見た」と語ったのです。まだ小さい幼児イエスを根拠に、「私を安らかに去らせて下さいます」と言ったのです。

  なぜ安らかにかと言うと、何千年に渡る長いイスラエルの罪の歴史にイエスが決着をつけ、平和を下さるからです。この方において神の福音が啓示され、万民に救いがもたらされるからです。しかし実際には、この時はまだ山のものとも海のものとも分かりません。だがこの小さな赤ちゃんを根拠に、まるで揺るがぬ巨大な大岩のような確かさを持ってシメオンは信頼したのです。彼の信頼は非常に透明です。混じり気のないものです。

  彼のあり方は、私たちに、「このお方を根拠に、安らかに前進すればいい」という生き方を指し示しているのではないでしょうか。

  シメオンは、幼子イエスが実際にどういう人に育つか知りません。遊女や罪人、収税人たちへの愛、その愛の深さをまだ知りません。十字架の贖罪愛とか、人類の救いのため、血のようなに汗が滴るゲッセマネの祈りの格闘も、復活もずっと先のことです。だが揺るがぬ確信をもって委ねたのです。

  もしそうなら、私たちの方はイエスの十字架も復活も、民衆を愛された愛の深さも具体的に知っている訳で、私たちこそ、イエスを根拠に、シメオンよりもっと揺るがぬ確信をもって、安らかに前進していいのではないでしょうか。日々の生活に慰めを与え、支えを授ける拠り所として生きうるのではないでしょうか。

  先程の詩編2篇に、「お前は私の子、今日、私はお前を生んだ」とありました。これはここに集っている私たちすべてに語られている言葉です。今日、キリストの福音を聞いた人は、どの人も、「あなたは私の子」である。「今日、私は新しくあなたを生んだ。あなたは神との関係で新しく誕生した」と言われているのと同じです。イエスの愛は感じなくても、必ず皆さんに届いています。安らかに進む力を与えて下さっているのです。

  地震後、絆ということがよく言われます。ある方が絆という言葉を、「断頭によっても断ち切れない人の結びつき」と解釈していました。どの口語辞典か知りませんが、そう記されているのがあるそうです。私はちょっと言い過ぎでないかと思いますが、ただキリストと私たちの絆は、「断頭台に立たされても断ち切れない結びつき」です。

  イエスが、「身体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も身体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われたのは、断頭台によっても、何者によっても、私たちと主なる神の関係を、イエスの十字架のゆえに断ち切ることはできないという内容です。そこまで強く神は私たちと絆をもって結び付けて下さっています。

  年末にはあちこちで、ベートーベンの第9が演奏され、歓喜の歌が歌われました。

  彼は数々の名曲を作りました。私は「月光」を初めて耳にした時、全身が打ち震えました。当時私は非常にニヒルで、希望を持たない暗い人間でしたが、まるで冴え渡る月光が私の心の闇の地平さえ照らすのを感じて、涙がこぼれてなりませんでした。「田園」の曲ののどかさ、静けさ、また雷鳴、驟雨も素晴らしいと思いますが、舞台はヨーロッパなのに、日本の懐かしい田園風景すら思い出させて、どこの国の人も魅了します。「運命」は、デデデデンと静寂を破って確かに近づいて来るんですね。

  皆さんもよくご存知のように、彼がこれら不朽の名曲を作ったのは、酷い難聴が始まった31歳以降です。50何歳かで亡くなりますが、31歳で遺書を書いています。31歳ですよ。

  去年の8月、ウイーンの郊外に妻と2人で1時間半ほどウオーキングに出掛けました。ベートーベンの道という小道です。路面電車の終点まで行き、村を抜け、小川を渡り、ブドウ園の傍らを登ってまた下り、グリンティンクの小さな町に出て、その町に幾つかあるベートーベン・ハウスに入って、この遺書に出会いました。

  遺書を書くほど絶望の中に陥れられながら、逆境と戦う中で名曲が作られて行ったのです。後から考えれば、逆境こそ宝物の宝庫だったのです。神は逆境の中で宝を備えて下さっているのです。

  神がイスラエルの60万の民をエジプトの肉鍋から導き出し、砂漠の40年間を旅させられました。「荒れ野の40年」と言って、今の教団執行部の人たちは悪い意味で使っていますが、果たして悪い意味だけでしょうか。むしろ40年間、砂漠で人類の宝とも言える十戒によって鍛えられて、宝の民に育てられたのです。出エジプトの、神に導かれる苦闘の40年がなければ、十戒預言者旧約聖書もなく、彼らは世界の歴史にいささかも貢献しなかったでしょう。聖書の民は、問題のない40年でなく、呻吟苦闘の40年を経験した故に、神の民と言われるまで鍛えられ、成長していったのです。神が一緒に歩いて下さった感謝の40年です。

  この年ももう1カ月過ぎようとしています。ただ今年はどうなるか、予測できません。先程の子どものお祈りに、去年は困難が多かったから今年はいい年にして下さいとありましたが、ほんとにそう思います。だがどうなるか分かりません。「どういう年になるのだろうか」と考えると不安が募ります。しかし、どういう年を迎えようと、この年、断頭台に立っても断たれぬイエスとの太い絆を根拠に進むなら、もたつく足も必ず支えられるでしょう。

  箴言4章にこうあります。「神に従う人の道は輝き出る光、進むほどに光が増し、真昼の輝きとなる。」神を信じ、安んじて進んで行きましょう。信仰をもち信じて進めば進むほど、光は増し、確かになって来るのです。

  こうもあります。「私はあなたに知恵を与え、真直ぐな道にあなたを導いた。歩いても、あなたの足取りはたじろがず、走っても、躓くことはないであろう。」

        (完)


                                      2012年1月29日



                                      板橋大山教会   上垣 勝


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