救いを抱きしめた人


                           中世のバラ窓の一角
                                ・


                                          安らかに前進する (上)
                                          ルカ2章22‐35節


                              (序)
  春に創立20周年をお迎えになるそうで、少し早いですがおめでとうございます。O先生は60数歳から80数歳まで、第2の開拓伝道をここでなさって、本当によく教会にお仕えになられました。感謝すると共に本当に驚きます。「まったき燔祭」というのが旧約に出て来ますが、世の栄達を望まず一生を丸ごと主に捧げて来られました。先生はまさに「まったき燔祭」でいらっしゃいます。

  今朝大山の家を出て直ぐ、見ると目の前にO先生がいらっしゃるじゃありませんか。咄嗟に、「勝負あった」って思いました。こういう方だから、2度も開拓伝道がおできになったんですね。私などは足元にも及びません。

                              (1)
  今日は、幼児イエスの奉献の個所から学びたいと思います。教会暦ではまだ降誕節の内ですから、この個所を選びました。

  ここから分かるのは、イエスの両親は律法に忠実な真面目なユダヤ教徒であったことです。それで生後40日が経つと、子どもを献げるためにナザレから数日かかってエルサレムに宮もうでに出掛けたのです。山鳩か家鳩の雛2羽とあるのは、当時律法で貧しい人に定められた献げものです。彼らが貧しい一家であったことが窺われます。

  神殿の境内に入って行くと丁度、老シメオンも境内に着いた所で、ばったり出会ったのです。互いに見ず知らずの他人ですから、普通なら通り過ぎますが、シメオンは、目の前に現われた旅人が抱いている幼な子が、長年待ち望んでいたメシアであると咄嗟に悟ったのです。

  どうして分かったのかと言っても、直観としか言えないでしょう。27節に、彼は「霊に導かれて神殿に入って来た」とあります。神の霊に示され直観的にこの幼児がメシアだと悟ったのでしょう。

  彼はすぐに近寄って幼子を抱き上げ、「主よ、今こそ、あなたはお言葉通りに、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです」と語りました。「僕を安らかに去らせて下さる」とか、「主が遣わすメシアに出会うまでは決して死なない、とのお告げを受けていた」というのですから、彼はかなり高齢であったと想像されます。彼は大変喜びましたが、その喜びようは目の前に浮かぶ気がします。彼はまた、「これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と力強く歌ったとあります。

  彼は、幼子に神の救いの徴を見たのです。だが単に徴を見たと言うだけでなく、今こそ私は救いを持ったと、救いを手にし、抱きしめていると思ったでしょう。何という幸せでしょうか。「この僕を安らかに…」と言っています。今こそ、私は救いを手にし、安らかである。平和である。神、我らと共におられると実感を込めて神をほめたたえたのです。

  私たちの教会に86歳の方がおられます。礼拝は欠かさず、祈祷会もほとんど欠かしたことはありません。真実ないい祈りをされます。その年に拘わらずこの方の胃腸は丈夫で、食欲旺盛。医者から40代の丈夫さですと太鼓判を押されているそうです。それで女学校時代の友達や習い事の生徒さんたち、その他色んな機会を作って都内のあちこちに美味しいものを食べ歩いています。厚いビフテキを見る見る平らげ、脂っこいものやチョコレートも大好き。ケロッとして決して胃がもたれることがない。しかも血圧が低い。

  ところがこの方は、「何か満たされないものがある」と言われるのです。一番大事な所が何か満たされていない。これでいいのかとおっしゃるのです。

  アモス書8章に、「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見出すことは出来ない」とあります。

  主の言葉を聞くことが出来ない飢え。神の命に与ることが出来ない渇き。探し求めても与えられぬ悶え。この世的には満たされているが、これでいいのかという一種の不安感、高齢になっての心の焦り。教会に熱心に来られるのに、今一つ、最後の詰めが出来ていないというのは、私の責任でないかと思ったりもします。

  ただ、黙示録22章を見れば、この婦人の渇きはそれでいいのだと思います。聖書の最後のページは、「すっかり完成。これで良かった」と言うようなことは書かれず、「主よ、来て下さい」「キリストよ、来て下さい」「主イエスよ、来て下さい」と、魂の渇く者として真実に主を呼び求める人間、キリスト者の姿があるのです。聖書の最後が主に渇き、主を切に求める声で終わっているのだから、この方もそれでいいのです。

  だが、今日のルカ2章のシメオンは幼子キリストを抱きしめた時、「この僕を安らかに去らせて下さいます。この目であなたの救いを見たからです」と喜び歌ったのです。完全な歓喜、仏教的な言葉でいえば法悦に浸った。

  「何か満たされないもの。」何だかモヤモヤする心の悶え、焦り、渇き、飢え。彼から、それがすっかり吹き飛んでしまったと言ってもいい。完全に。

  ここからすれば、この方はもっと切に求められて、シメオンのようにキリストに直接見(まみ)えて、渇きと飢えがすっかり満たされることを願わざるを得ません。

                              (2)
  しかもシメオンは、「僕を安らかに…」というのですから内に安らぎを授けられたわけですが、プライベートな私的安らぎだけでなく、今やこのお方は「万民」のために神が整えられた救いであり、「啓示の光」であり、「イスラエルの誉れ」だと示され、喜び歌ったのです。

  幼子ですがイエスに出会い、個人の安らぎと救いが、民族、国民、いや「万民」に及ぶと老人は知ったのです。年を取ると視野が狭く限られがちですが、シメオンは個人的救いが砕かれ、世界的視野を持つ広い考え、信仰へと導かれたのです。

  もう1月末になりましたが、皆様はどういう新年をお迎えになったでしょうか。大山教会のある方が元旦礼拝を終えて、すぐ家に帰られました。結婚した子供たちも帰って来て、皆が揃って新年の祝いをするためです。

  食事をいている時に、40代の家庭持ちの長男さんが、「母さん、母さんたちが死んだら、仏教で葬式をするからね」と言ったというのです。正月早々です。その方は驚いて、「私は教会でお葬式をしてもらうつもりよ。私だけでなく、お父さんも、洗礼を受けなくても、分骨だけでもして教会のお墓に私と一緒に入ります」と言われたと聞きました。よく言われたと思います。言うべき時にはちゃんと言わなければなりません。

  黙って聞いていた娘さんが、「お母さん、私たち夫婦もいつかは洗礼を受けて、教会の墓地に入れてもらうわ」と言い出したというのです。言うべき時にしっかり言ったから、証しになるのです。

  個人の救いがどこかで家族の救いにつながっていく。私の信仰、私の救いが家族の救いにやっぱりつながっていって欲しい。家族も越え、万民まで行って欲しい。今はまだ駄目でも、やがてはそうなるような祈りが大事です。第1ペトロに「妻の無言の行いによって救いに導かれるようになるためです」とありますが、しぶとい祈りです。

  いずれにせよシメオンがこの幼子によって示されたのは、個人を越え、家族を越え、国民を越え、万民に及ぶという世界大の信仰です。

        (つづく)

                                      2012年1月29日



                                      板橋大山教会   上垣 勝


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