自分の闇に語らせてはならない


        長い縦長のステンドグラスの中央にこのメダリオンがあります。空の墓=復活の場面です。
                  理由はイエスの誕生でなく、復活がキリスト教の中心だからです。
                         1100年代のリヨンの教会で
                               ・



                                        目標は目先の利益でなく (上)
                                        Ⅰテサロニケ2章1-6節


                              (1)
  今日の1節2節では、何が強調されているでしょうか。どの言葉に最も強調点があるでしょうか。

  先ず、パウロは、あなた方の所に行ったことは無駄でなかったと言っています。決して無駄ではなかったという事です。ですから、「無駄ではなかったどころか」と反語的に2節で語っています。そして、「フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなた方に神の福音を語ったのでした」と続けています。

  元のギリシャ語では、「勇気づけられ大胆に語る」という所が一番強調されています。テサロニケに行ったのは無駄でなかったのです。それは、そこで神に勇気づけられたからなのです。当のパウロたちにも、思いがけないほど勇気を授けられたのです。それは、フィリピで相当の打撃を受けたから、全く落ち込み意気消沈してしまっていたからでしょう。

  そんな中、テサロニケで何が出来ようと案じていたが、「神に勇気づけられた」のです。思いがけず多くのギリシャ人が信仰を持つに至ったことを指しているかも知れません。いや、人数を問わず、民族を越えて人々の心にイエスの福音が深く入って行ったことで大変勇気づけられたのでしょう。福音の力に対する信頼を回復したのでしょう。

  それで勇気百倍、誰はばからずますます大胆に福音を語った。テサロニケに来たことは無駄であったどころか、パウロたちは再び神に出会い、福音の救いの確かさをまざまざと見せられたのです。これ程嬉しいことはなかったでしょう。

  「フィリピで苦しめられ、辱められた」とあります。パウロはローマの市民権を持つ人間であるにも拘らず裁判もなく、役人たちから公衆の前で服を脱がされ、裸にされ、鞭を打たれた末、投獄されたことを指しています。これはローマ市民への「侮辱」、人間への侮辱以外の何ものでもないということです。

  「激しい苦闘の中で」福音を語ったともあります。この苦闘は外部から受けた試練や苦闘を指すと共に、内面の闘い、自分との闘いも含みます。

  無論パウロは神に勇気づけられたのです。だが、それは棚からボタ餅が落ちるように勇気づけられたというのでなく、神に勇気づけられた故に自分との内面的な闘いとなり、「激しい苦闘」ともなって、神の福音を大胆に語るようになったことでしょう。

  ヨーロッパ大陸に渡ったものの、そこで苦しめられ、辱められ、投獄され、巨大なこの世の力の前で砂粒に等しい自分を嫌というほど味わった。一粒のからし種のような、取るに足りない存在の再認識です。圧倒的なこの世の力の前で何が出来ようとの自覚です。だが、そのような内面の葛藤がありながら、神を信じて地に播いた。神に委ねて激しい葛藤の内に、大胆に自分を神のために用いた。その時、5つのパンで7千人を養うようなことが起こったのです。

  神に勇気づけられて苦闘の中で一歩前に出た。すると小さな者が用いられたのです。そのことでまた神に勇気を与えられて苦闘の中で一歩出る。するとまた用いられるのを知る。そういう神の力に導かれる連鎖です。

  パウロは、アテネ古代オリンピックの競走やボクシングを見たことがあるのでしょう。コリント前書9章で、それらの競技を例に出して、「私は闇雲に走ったり、空を打つような拳闘をしない」と語りました。そして続いて、「むしろ、自分の体を打ち叩いて服従させます。それは、他の人々に宣教して置きながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」と語りました。

  鋭い正確なパンチを自分に浴びせる。他者にでなく、自分の体に向ける。自分が甘え、怠けぬために、自分を服従させると言います。彼は神に勇気づけられたからこそ、「激しい苦闘の中で」自分自身を服従させながら神の福音を語って行ったのです。

  初代のキリスト教がトルコからヨーロッパ大陸に掛けてじっくりと広がったのは、こういう人物がいたからです。パウロだけでなくパウロの他にも彼に影響されて生きた人たちがいたからです。

                              (2)
  東日本大震災で被災した教会の牧師たちは、今一体どういう神の福音を語っているだろうかと想像します。お支えがあるようにと祈ります。ボランティアが極端に減って外部の人たちが来なくなり、「自分たちは忘れられた」と思ってしまうのが一番怖いと言いますが、忘れられている余り人が訪ねない教会のために特に祈りたいです。訪ねる人の多い教会とそうでない教会、その温度差が気になります。

  そのような教会も、パウロと状況は違いますが、ぜひ「神に勇気づけられ…激しい苦闘の中で福音を語って」いって欲しいと、押し付けられませんが、そんな祈りを持ちます。

  一般的に言って、私たちにとって一番怖いのは、自分の心の闇が語り始めることです。心にはドロドロしたものだけでなく、ニヒルなものが住んでいます。そういうニヒルなものが語り始め、それに耳を傾けることです。誰の心にも、正体の知れない恐ろしいものが住んでいます。コヘレト6章に、「賢者さえも、虐げられれば狂い、賄賂を貰えば理性を失う」とあります。人間の弱さであり、罪の深さです。

  その自分の心の闇に語らせてはならないし、自分の心の闇に耳を傾けてはならない。光に語らせねばならないし、光に聞かなければならない。でなければ、心の暗部からは何が飛び出すか分からないのが人間だからです。

  だから、たとえ苦しめられ、辱められても、「神に勇気づけられ、激しい苦闘」あるいは、「心の闘い」の中で、人に希望を与える光の言葉を語って行く。怒りや裁きや呪いさえ出て来そうになることがあっても、そこで自分と闘って、踏ん張って希望の福音を語って行くということが必要です。

  パウロはコリント前書4章で、「今の今まで、私たちは飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で働いています」と述べた後、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、罵られては優しい言葉を返しています」と語りました。このようなキリストに導かれた生き方、悪に対し悪で報いるのでなく、善をもって報いる生き方が、今日の個所でパウロがしていることです。

  もう一度申しますと、「激しい苦闘」とは自分との闘いです。不信が生まれ、怒りで心が爆発しそうになる。だがキリストのゲッセマネ、十字架の苦闘を思って、怒りを宥(なだ)め、希望を抱いて福音に生き、「福音を語って」進んで行くのです。

  復活の主がお与え下さる平和なしにはこれは不可能です。だがパウロはキリストの平和をもって、「神の福音」、喜ばしい恵みの福音を語ったのです。

          (つづく)

                                        2012年1月22日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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