悪習の悩みも解決される


           リヨンの12世紀の教会ステンド・グラス窓は下からみ告げ、誕生…と続きます。
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                                        伝播する神のことば (中)
                                        Ⅰテサロニケ1章8-10節


                              (2)
  この言葉を、もう少し馴染みのある言葉で言えば、第Ⅰコリント6章の、「あなた方は代価を払って買い取られたのです。自分の体で神の栄光を表わしなさい」という言葉でしょう。キリストの代償という贖罪信仰。高価な恵みへの感謝の信仰です。

  テサロニケのキリスト者たちの、喜びを抱き、力強く、主に倣う者として生きる信仰は、キリストの恵みに対する活き活きした応答でしたから、きびきびした信仰態度になったに違いありません。

  洗礼はキリストとの結婚に譬えられます。結婚を前にした花婿も花嫁も心に曇りはありません。あっては結婚できないでしょう。それまではグジャグジャした問題を抱えていたにしても、結婚となるとグジャグジャした心の曇りは晴れて、すっきりした思いで結婚します。彼らはそういう信仰に生きた。だから喜びの生活になったのです。

  私たちは福音書のあちこちで、一方的に愛して下さるキリストの愛、しかも極みまで愛して下さる愛を知っています。放蕩息子に対する父親の赦しの愛、姦淫の女に対するイエスの赦しの愛。義人でなく、罪人を招くために来たと言われるイエスの愛の深さに、私たちは慰められ、ホッとさせられます。

  ですから、そこには罪に対する刑罰がないように思われます。イエスには裁きがなく、赦しのみであると見えます。

  しかし、神は正しい方、義なる方ではないでしょうか。正義を最後まで貫徹される方です。悪や不義を放置されません。十戒は、「主の名をみだりに唱えてはならない」と命じます。口先だけではいけないのです。神を侮る者は峻厳な裁きが下ると言わねばなりません。10節の「来るべき怒り」とはそういう意味です。

  ただその峻厳な裁きは、罪を犯した私たちの上にではなく、罪のない神の御子キリストに比類なき鋭さを持って下されたのです。

  イエスは俎板(まないた)の鯉のように、全て観念し、ビクッとも動かず十字架についておられません。ゲッセマネの祈りを見てもそうです。「この盃を私から取りのけて下さい」と繰り返して必死に祈られました。汗が血の滴りのように流れ落ちたと書かれています。はらわたが捻じれるほどの絶叫を持って十字架で叫ばれたのではなかったでしょうか。「わが神、わが神、何ゆえ、私をお見捨てになられたのですか」。その叫びに全地が夜のように暗くなったと書かれています。

  それは、私たちの拭い難い罪への神の怒りの裁きを代わってもろに受け、神の御子が叫んでおられるお姿です。神の御子が父なる神に向って、そうです。子が父に向って、どうして私をお見捨てになるのですかと必死に叫ばれたのです。

  そうとでもしなければ、私たちの罪の汚濁は収まらない。癖や慣習になった罪が収まらない。良心が清められない。身体と心に染み込んだ汚れた行ないから足を洗うことが出来ないからです。

  だから最後の最後において、神はわが子を十字架につけて裁いた。そしてイエスは、私たちのために、「父よ、御手に委ねます」と、父なる神の御心に従順に従われた。

  こうして神は罪ある私の上に鋭い裁きの剣を振り下ろすべき所を、愛する独り子、御子の上に振り下ろして下さったのです。

  「あなた方は代価を払って買い取られたのです」とは、独り子である御子をさえ、私たちを救い出すために代価にして惜しまれなかった神のお心、高価な恵みを語っています。

  今日の「この御子こそ来るべき怒りから、私たちを救って下さるイエスです」とは、そういう意味です。

  テサロニケのキリスト者たちは、この所で神に出会い、キリストの愛に出会ったのです。彼らはそこで神の恩寵無限を経験した。底なしの恩寵です。地獄の底よりもっと深い、地獄にさえ福音の光を届かせられるキリストの恩寵無限です。

                              (3)
  神はこのような恩寵無限の愛の方だからこそ、御子をさえ惜しまず十字架にお付け下さったのです。しかも、それは天地創造以前からそうお決めになっておられたのです。

  イギリスのケンブリッジにホーキングという理論物理学者がいます。ブラックホールに関する研究で有名で壮大な宇宙論を展開して、世界中はびっくりしました。ホーキンスは確か21歳で筋萎縮性側索硬化症という重い障碍を持ちました。身体がこのように歪んで痛々しい限りです。しかしケンブリッジでは体調の良い時は教会の礼拝に今も出ておられます。先週の日曜日は70歳の誕生日でした。沢山の方が参加してお祝いがある筈でしたが体調が整わず、取りやめになったようです。しかし感謝の言葉をプリントで発表されました。その最後で、「無から世界が造られた」ことを恵みとして説いたようです。

  世界が無であったその前から、神は愛の方であったのです。天地の創造、人間の創造以前から神は恩寵無限であることを決意しておられた。そのキリストの恩寵無限の愛にテサロニケの人たちが出会った。

  それが彼らを偶像崇拝から解き放った。また様々な悪習から救い出した。また神とキリストを、喜びを持って証しすることへと導いたのです。悪習に悩む方も必ず解決されます。

  即ち、彼らはそこから引き出された。そしてどっしり大地に信仰の根を生やして生きる者になったのです。


           (つづく)

                                        2012年1月15日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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