絆とは


                      窓伝いに歩くヒョウが上にも下にもいます。
                            実はだまし絵

                       分かってましたって? でもガラス窓も
                      まさかだまし絵だとは思わなかったでしょう。
                               ・


                                        イミタチオ・クリスティ (中)
                                        Ⅰテサロニケ1章4-7節


                              (2)
  パウロたちは少しも弱音を吐かなかったのです。強がったのではありません。彼らは、「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによって」キリストを証しした。キリストが働いて下さることへの限りない信頼。歴史を支配される神への確信です。彼らはキリストに倣って生きた。

  この力に満ちた信仰と率直な情熱的な主に従う行動が、テサロニケの人たちを力づけたのです。そのため6節にあるように、テサロニケの人たちが「酷い苦しみの中で」、これは迫害を指します。「聖霊による喜びをもってみ言葉を受け入れ」、これは洗礼を指しているでしょう。パウロたちに倣う者、「また主に倣う者となり」、マケドニアとアカイア州の2つの州にまたがる「すべての信者の模範となるに至ったのです。」まるでキリストの誕生によって、「暗闇に住む民は、大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」ということが、ギリシャ諸州にも起こったと語っているかのようです。

  パウロはこうした信仰を持つに至った彼らを、「あなた方が神から選ばれたことを、私たちは知っています」と書きました。最高の賛辞です。テサロニケの人たちはパウロたちによっていかに新しく望みを得、強くされ、パウロたちもいかにテサロニケの信徒によって力づけられたか測り知れないものがあります。

  キリスト教徒は長い歴史の中で、同じ教会内は勿論のこと、1教会を越え、国境も越えて影響し合い、信頼し合い、連帯し合って来ました。2千年に渡ってそれが続き、キリスト教の伝統になっています。

  一般的に言っても、人も社会も孤立して生きることはできません。震災や津波で連帯や絆が説かれます。信頼し合わなければ、人の間と書く人間の真の姿は生まれません。

  信頼するのはお人好しのすることや、世間知らずのすることではありません。軽はずみでもありません。しかし、人を信頼するには本来冒険が要ります。リスクを冒さなければ出来ません。あれほど信頼していた人がすっかり変わってしまったということも、長い年月には起こります。

  教会ではしかし、私たちは「主に在って一つ。キリストにあって一つ」であるから、互いに信頼し支え合うのです。信仰の狭き門を通って来た者たちであるから、信用するのです。

  信用と言いましたが、9月に「池田」という人が2回礼拝に来ました。福島の浪江町で、お爺さんの代から牛50頭の酪農をして来たということで、津波原発で両親は仮設住宅に入っている。自分は別の場所に逃れたが、今度東京で警備の仕事が見つかり、近く大山のアパートに住んで狭いが両親を呼び寄せると言っていました。母親はクリスチャンで、自分も小さい頃は教会に通っていたとも言いました。それで私たちはすっかり信用したのです。

  で、何人かはお金を差し上げたと聞きました。月定献金を差し上げた方もありました。用心深い筈の家内もお金をあげました。私はバザーの収益の何割かを支援してはどうかと内心考えていたところでした。だが詐欺でした。一切お金をせびらず、犯罪が成立しない巧妙な寸借詐欺でした。都内の色んな不動産屋が彼に引っかかりました。不動産屋というのは教会と姉妹関係なんだと思いました。どっちもお人好しが多いらしい。

  ですから、安易に信用すべからずです。だがこれを教訓に、「あつものに懲りてなますを吹く」ということであってはならないでしょう。

  脱線しましたが、キリスト者は「主に在って一つ。キリストにあって一つ」ですから、互いに支え合うのです。連帯の根拠はここにあります。絆はここに源泉を発します。だから何よりも、互いに祈り合います。物やお金の実弾も大切でしょうが、祈りは真に心を伴っています。

  自分がキリストに受け止められ、愛され、皆からも支えられている。だから信仰のリスクも冒せます。教会の中で兄弟姉妹として真に祈られている。信頼され、愛されている。だから悪に走らないでおこう。家族を愛そう、赦そう。親切にし、優しくしよう。この大切な市民社会の問題の取り組みを続けよう。祈られているから、そのリスクを冒そうという思いを支えます。同じ主に属して支え合っているのが支えになります。

  「主に在って一つ」であるとは、互いに主に在って所属し合っているということです。生きる場所や職業や環境や年齢は違っても、連帯する群れの中にいる時、人生は深い意味を帯びて来ます。

  私が皆さんの中に置かれていることを誇りに思っているとよく申しますのは、そういう意味です。この群れを与えられているのが嬉しいのは、皆さんと人生を共にして、人生に深い意味が生まれるからです。私は皆さんに属し、皆さんもキリストにおいて私に属し、皆さん同士が互いに属し合っている。この連帯です。

  教会というのは竈(かまど)みたいです。薪は一本では長く燃えません。2本になれば燃えやすくなる。しかし、3本、4本、5本となるに従ってドンドン燃えて行く。ただ太い木だけだと火が点きにくい。細い木、密度の軽い木があると火が点き易い。太いのも細いのも、重たいのも軽いのもいるんです。太い木に火が点くと中々消えません。そういう色んな者が絆(きずな)となって結ばれ育てられ燃やされて行くのが教会です。

  パウロたちとテサロニケの信徒たちは、そういう切っても切れない絆で結ばれていた。

  絆という言葉をある人は、「断頭によっても断ち切れない人の結びつき」と解釈していましたが、ちょっと言い過ぎでないかと思いました。ただキリストと私たちの絆は、「断頭台に立たされても断ち切れない結びつき」だと私は思います。

  イエスが、「身体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も身体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われたのは、断頭台によっても、何によっても、何者も私たちと主なる神の関係を断ち切ることはできないと言うことだからです。

  そういう切っても切れない絆を主に在って頂く兄弟姉妹であるから、私たちは互いに所属し合い、信頼し合い、祈り合い、連帯し、燃え合うのです。

  私たちは互いに批判し合うために集められていません。中傷し合うために教会に集められていません。そういう関係ほど情けない集団はありません。それは火に水をかけるようなことです。

  キリストが私たちにもたらして下さったのは、神が他の人の中に置かれた最良のものに目を留め、それを発見し、喜び合うことです。すると互いに燃やされていく。

                              (3)
  去年を振り返る時、皆さんは何が一番の感謝でしたでしょう。教会についてはどうでしょうか。…私にとっては耐震補強リフォームが一番大きな感謝でした。地震前にほぼ完成していたことも含めてです。

  建築は、実に長い教会の課題でした。だがそんなことができるだろうかと悲観論が心の大半を占め、諦めていたのが教会の実情でした。3年前まで、誰もこれほど大掛かりなリフォームを言い出す人はなかったと思います。私たちはこの感謝を、何かの形で後に伝えなければならないと思っています。被災地に50万円+15万円ほどをお送りして記念にしました。しかしそれだけでなく、感謝を書きとめることが必要でないかと暮から思っています。リフォームができたことを当然のこととし、当り前にして過ぎてはならないと思います。

  どんなに節約して皆さんがお献げ下さったか。また時間を作って奉仕下さったか。求道者の方もかかわって大事な働きをして下さった。また全国の方々が熱い祈りと共に献金して下さった。また、信濃町教会の方々が、30年前に私がたった3年間いただけなのに、138人の方が集まって356万円も献金して下さったのです。当時の私のほぼ1年分の謝儀に当たります。個人がそれだけも熱意をもって献金なさったので、教会の役員会が非常に驚いて、まあまあ教会として差し上げればいいと考えていたようですが、教会としても、同額程度は出しましょうよということになってしまったと聞きました。ですから当時の私の2年分の謝儀をポンと下さった。これにはほんとに驚きました。それに、クリスチャンでないご近所の方がポンと300万円献げて下さった。他にも100万円とか…。神が何ものでもない私たちと実際に共におられるのを感じました。

  ここにも信仰による連帯があります。教会同士だから、親教会だから出すのは当然と言うのは筋違いです。大きい教会だからとか、持っている人はそれ位はすべきだなどという考えは、決してそうではありません。そういう事をチラッと別の所で耳にしたことがありますが、そのような言葉は感謝を生みません。真面目に物事を考えはしません。教会を建てていきません。

  私は、これらの支援に一体どうお応えすればいいのかといつも思い巡らしています。恐らくお応えできませんが、できなくても、それを思うのが人の信義というものでしょう。

  ですから私たちがキリストに所属し合い、1教会を越えて、互いに所属し合っている。ここに起こっている事柄に感嘆し、感謝し、恐れをなし、主の前に身を低くし、賛美する。これは少なくても私たちがしなければならないことだと思います。

  テサロニケの信徒たちが、パウロたちの信仰を契機として、聖霊による喜びをもって信仰に入り、イミタチオ・クリスティ、主に倣う者となったように、私たちは小さな者ですが、信仰を喜び、キリストの恵みを反映する者、山上の小さな湖面とはいかなくても、少しでも恵みを映すもの、輝かすものになりたいと思います。


        (完)

                                        2012年1月8日




                                        板橋大山教会   上垣 勝


       ・ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/ 

       ・板橋大山教会への道順は、下のホームページをごらん下さい。
                   http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/