平和の宣言


                     聖母子像(ウイーン・ステファン教会の名品)
                                 ・



                                             平和の宣言 (下)
                                             ルカ2章8-14節


                              (3)
  御使いとその万軍は、「栄光神にあれ」と神を賛美しましたが、それと共に、「地に平和、御心に適う人にあれ」と歌って平和を宣言しました。

  地に平和。この地球にくまなく平和があるようにとの宣言であり、全人類への祝福の宣言です。私たちの神は何と気高く、貴いお心をお持ちなのでしょう。商売繁盛ではない。平和による祝福です。

  創世記1章に、神は万物を創造し、お造りになった全てのものをご覧になった時、それは甚だ良かった。神はそれを見て、「よしとされた」と書かれています。「地に平和あれ。」これはすべてをよく造られた天地創造のわざに匹敵します。その神の祝福の継続とも言えるでしょう。

  平和は社会制度として、社会組織として構築される必要があります。短命のものでなく、恒久的な平和になるためにそれは必須です。「永遠平和のために」と哲学者カントが一冊の書物を書いています。客観的な確かな制度と組織で平和が補強される必要があります。

  聖書では、平和は、正義が洪水のように流れ、恵みの業が大河のように尽きることなく流れる所にあります。常に新しく平和の関係は更新されて行かなければなりません。洪水のように、大河のように平和が絶えず新しく更新されて行くことが肝要です。

  それにしても、平和は個々人の心の中から始まります。「地に平和。御心に適う人にあれ」です。神を知り、神との交わりがある時に、平和がそこに実在するからです。人間の根源におられる神を見出すまでは、心は真の平和を得ません。

  キリストの誕生の時に、「地に平和があるように」と天に歌声が響きましたが、十字架を間近にしたキリストが弟子たちに約束されたのは、「私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」という約束でした。また復活のイエスは、「あなた方に平和があるように」と2度にわたって語られました。聖書の大きな主題は平和です。戦争でなく平和の実現です。

  神との、平和のキリストとの出会い。神に愛されているという御心への信頼が生まれると平和が来ます。物質の充足があっても、魂の平和、平安がなければ悲しいことです。魂の深い底からの平和は、神を見出す時にやって来ます。

                              (4)
  Hさんは、アミロイドという物質が色々な臓器に沈着して機能しなくなる難病のために教会に来れなくなっていますが、この秋、「ALアミロイドーシス患者の会」を、日本で初めて立ち上げられました。お見舞いのクリスマス・カードと週報を差し上げたら、返事を頂きました。

  10月で入院はおしまいと思っていたら、年末にもう一度することになり、22日の午後、今年の締めの治療を終了して無事に家に戻られました。

  毎回入院中は、「至福の時間と言えるほどの素晴らしい時を与えられます」とか、「主の恵みと奇跡の連続にただ畏れおののくばかり」とありました。

  何らかの病気の患者さんばかりですが、今回は「白血病の兄のためにドナーになって、ご自分の幹細胞を採取する為に入院された方と同室に」なられたそうです。「幹細胞移植の適合率は厳しく、兄弟でもなかなか合わない」ようですが、その方は「たった二人兄弟だのに、一致して無事に必要量の採取が出来ました」と我が事のように喜びを書いておられました。

  普通なら自分の難病のことで精一杯で、心の余裕など生まれませんが、キリストの平和を与えられて、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く余裕を授かっておられることを感じました。

  10月の入院時のことも書いておられました。「『ALアミロイドーシス』の患者さんで、入院中に『多発性骨髄腫』を併発してしまった患者さんと同室でした。実は『骨髄腫』と『アミロイドーシス』の併発は最悪のパターンです。

  10月は『ALアミロイドーシス患者の会』のメーリングリストを作って、入院中、チラシを配っていた時で、彼女も参加すると言って下さいましたが、そのタイミングでもう1つの病気が見つかったのです。彼女は3年前に自分の幹細胞移植を経験していますが、もう一度移植治療が必要になりました。今度は自分のものは使えず、他の方から貰わなければなりません。退院後のメール交換でその事を知りました。幸い適合するドナー登録者が15人いらっしゃるのですが、幹細胞を採るためには、注射をして徐々に白血球の数を上げていくため、ドナーは一週間位の時間を捧げなければなりません。そこが献血と違うところです。多少のリスクもあります。果たして、自分がドナー登録していても、いざ依頼が来た時に、自分の置かれた状況が良くない時だったら、受けられるだろうかと考えてしまいました。

  原発などの影響で、世界中にますます移植治療が必要となってくると思われますので、私にとっても、祈りと活動の1つの課題になりました。

  メーリングリストというものも、色々難しいもので、患者の会も色々課題が多く、考え込んでしまう事もあります。そんな中、先生のメッセージを通して光をいただき感謝します。

  患者の会や私がやらせていただく事は、主が許して、主が始めて下さったことなので、主にお任せして、これからも歩んで行きたいと思います。主のみ名を賛美します。教会の皆様のお祈りの力、いつも感じております。ありがとうございます。」

  ご自分が特別ひどい難病で困っていらっしゃる筈なのに、それを恐れず、難病を神から頂いた幸いと考え、証しの機会にしたいと思って、「天に栄光、地に平和」を彼女は生きていらっしゃるのです。難病を通して天に、神に栄光を帰すること、そして地上の低い所で苦しむ人たちを自分の難病で励まし、その人たちに平和があるようにと祈って働いておられる。

  患者の会も色んな課題があるわけで、主に導かれて、ご自分も絶えず砕かれなければできないでしょう。絶えず神に砕かれ、神によって心に「平和」を与えられなければ不可能です。

  イエスは弟子たちに平和を与えられました。その平和は享受し、消費し、楽しむためではありません。無論楽しんでいいのですが、それだけでなく、キリストの平和を携えて困難な問題を持つ人々の所に遣わされるためです。

  「地に平和あれ」という行為が、「天に栄光、神にあれ」という賛美になります。また、「天に栄光、神にあれ」という信仰が、「地に平和」を創り出す行為になって行く。天と地が互いに響き合ってますます深められていく。天の万軍の美しい声は天と地の美しい共鳴を象徴しています。

                              (5)
  日本には納戸に大黒さんや恵比須さんを祀る「納戸の神」という習慣があります。先程キリシタンに触れましたが、隠れキリシタンは納戸の神に似せて、「納戸神」というのを作って、納戸に隠し、それを拝んで信仰を貫きました。隠れキリシタンの納戸神は、赤ちゃんを抱いた農婦の姿だそうで、普通目にする聖母子像とは似ても似つかぬものです。

  それはプロの画家が描いた絵でなく、明らかに村の誰かが描いたと分かるような幼稚な絵だそうです。先ほど申し上げた教養も何もない農民、水飲み百姓、ドン百姓の一人が描いたのでしょう。遠藤周作の小説にその幼稚な納戸神の絵が出て来るそうで、小説では、それを見た町役場の人や現代のカトリック教徒などが馬鹿にして笑うんだそうです。聖母子として拝めるような代物でなく、余りに滑稽な姿をしているからでしょう。

  だが、イエスはそんな無名の人たちの所に来られたのではないでしょうか。イエスは今も、先ほど述べた難民や孤児や難病や、色んな意味の底辺で苦闘している、富める人たちからは滑稽とも稚拙とも見える人たち。また、「今、最も助けを必要としている人たちと共に生きる心の低い人たち」の所に来ておられるのではないでしょうか。それが御子イエスの来られた所ではないでしょうか。

  私たちも、「栄光神にあれ。地に平和あれ」と歌いつつ今の時代を生きたいと思います。


          (完)

                                        2011年12月25日



                                        板橋大山教会   上垣 勝


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