被災地の方とキリスト


                    ラファエロの聖母子像(ウイーンの美術史博物館で)
                                ・


                                             平和の宣言 (上)
                                             ルカ2章8-14節


                              (序)
  リフォーム後初めてのクリスマスを迎えました。これまでの会堂は床板が薄くて床から寒さが上って来ましたし、窓からは隙間風が入る寒々したものでしたが、こんなに温かいお部屋になり、お陰で牧師館も外との温度差がこれまでのような1度か2度という寒さでなくなり、感謝の冬を迎えています。お風呂もユニット・バスになり、温かい浴槽に安心して身を沈めています。ただ良い気持ちで身を沈めていると、寒冷地の仮設住宅や、地震津波で歪んで隙間風が入るご自宅で辛い目をしている方々に、いつの間にか思いが行って、胸が痛くて風呂に浸かっていてもどうも落ち着きません。これまでの牧師館のように寒ければ、胸は痛まなかったかも知れませんが…。

  マリアとヨセフは宿にも泊れず、暗く冷える家畜小屋で初産を迎えました。今、被災地の方々は辛いでしょうが、イエス・キリストに一番近いところにいらっしゃるかも知れません。困難でしょうが、キリストがそばにおられるに違いありません。

  童話に登場する羊飼いたちはメルヘンチックでロマンチックですが、実際の羊飼いたちは虐げられて、何百年も底辺の下づみ生活でした。創世記に、伯父(おじ)のもとで長く羊飼いとしてこき使われたヤコブの言葉が記されています。「私は、昼は猛暑に、夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした。」パレスチナやハラン地方は昼夜の寒暖の差が激しいからです。彼らの苦労は相当なものだったでしょう。

  彼らは当時のユダヤ教からすればアウトカーストと言って、一般社会の外に外され、社会の正式な構成員とは見なされませんでした。律法に従わぬ人々、救われぬ類い、神は顧みられないとされました。ですから、彼らの魂もカラカラに渇いていたに違いありません。

  今日でも、こういう不況の中、また不況がなくても、色んなことでそういう中に置かれている人たちがあると思います。本当に人生の重い重荷を負い、苦労している人たちです。「働けど働けど、我が暮らし楽にならず、じっと手を見る。」啄木の時代とは違いますが、涙を浮かべて、そっと手を見ている方々が今日もあるだろうと思います

                              (1)
  幼子イエスがお生まれになった夜、燦然(さんぜん)と輝く夜空に、天の万軍が現われて、誕生を告げた御使いと共に神を賛美し、「いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったとありました。

  先程の交読にイザヤの言葉がありました。「一人のみどり子が私たちのために生まれた。一人の男の子が…。」イザヤのこの預言は700年後に実現して、「栄光神に。地には平和。」御子の誕生、クリスマスの知らせがここに告げられました。

  「栄光神にあれ。」御子の誕生は、地上で苦労を重ねる、最も貧しい人たちの間に先ず告げられたのです。上流の人たちや、学問のある、偉い人たちに先ず告げられたのではありません。御子は、御殿にお生まれになったのではありません。家畜小屋の牛か馬か羊の飼葉桶に布にくるまれて置かれた。布とあるのはドイツ語でルンペルンとなっています。ルンペルンとはルンペンの複数形で、ルンペンとはお年を召した方はお分かりですが、ボロ切れです。乞食です。ルンペンとはボロを着た乞食のことです。そのようなものでくるまれて寝かされたのです。隙間風どころではないでしょう。

  「栄光神にあれ」とは、神の御子が、貧しく、低き所にお生まれになったことへの力強い賛美であり、喜びです。かくも卑しき所に神の御子がおいで下さったという、溢れる感謝です。

  羊飼いは、昔の日本で言えば水飲み百姓です。ドン百姓。昔の資料には、彼らは薄いせんべい布団一枚にくるまって、寒い長い夜を震えながら腹を空かせて寝ていた農民たちです。彼らの所に、神々(こうごう)しい神の御子が生まれ給うた。キリシタン信仰は信長、秀吉時代に燎原の火のように広がり、農民と下級武士の間に50万人とか百万人近く達していたという説もあります。当時の人口は2千万人程ですから、大変な勢いでした。それは、御子の誕生が、水飲み百姓同様の羊飼いたちに先ず告げ知らされたと聞いたからでもあったでしょう。低き所においで下さったいと高き方を貴く拝したのでしょう。

  天の万軍が「栄光神にあれ」と歌ったのは、神は何に心を向けておられるか、神のお計らいの深さへの賛美です。

  肉体を持つ人間は空気だけでは生きられません。貧すれば貪すると言います。貪すれば卑劣さも現れがちです。長い不況で犯罪が多くなっていることはその表れでしょう。戦後間もなく、物がなくて闇市が横行した時代に、多くの人が己(おのれ)の浅ましい姿を経験したのではなかったでしょうか。だが羊飼いたちは、何世代にも亘ってそういう生活を強いられて来ました。

  世はこぞってトップを目指し、上を仰いでいます。しかしここにあるのは世の谷間、不幸の暗闇、誰も目を向けない低き所に神の御子を送られる神です。そのお方に、「いと高き所には栄光、神に」と謳われるのです。

          (つづく)

                                        2011年12月25日



                                        板橋大山教会   上垣 勝


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