愛を選ぶ


                           リヨン美術館で
                              ・


                                          信仰、愛、希望 (下)
                                          Ⅰテサロニケ1章2-4節


                              (2)
  パウロは4節で、「神に愛されている兄弟たち、あなた方が神から選ばれたことを、私たちは知っています」と書いています。信仰、愛、希望の源は、この神の恵みの選びにあります。

  神の選びについて暫らく考えましょう。4節でも「神に選ばれている」とありますが、私たちがそれを受ける権利があるとか資格があるというものではありません。また、神は私たちに選びを授ける義務があるわけでもありません。神の恵みの選びは、ただ憐れみに満ちた神さまの好意です。

  月末に6歳になるMちゃんは今、私たちの家の隅々まで知っています。押し入れにお菓子があると、これはどうするの?と聞きます。従妹に何かを送ろうとすると、私にはどうなの?と尋ねます。どちらにも「好意で」上げているのに、私ももらう権利がある、「バッちゃん、ジッちゃんは、私に上げる義務がある」と言いはしませんが、6歳に近づきそういう奥ゆかしさが出て来ました。でも盛んに言いたげなんです。

  子どもはいざ知らず、私たち人間は神の選びを求める資格などありません。神は私たちに恵みの選びを与える義務も因縁もありません。全くの好意で贈って下さるのです。「わが選びを受けなさい。この祝福を受け取りなさい。究極の良きものを汝に与える」と語って、私たちに贈与されるのです。

  「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである」とイエスは言われました。ここにキリストによる選びの確かさがあります。この選びには、キリストの意志があるからです。

  神の恵みの選びは不条理です。愛は不条理だからです。罪以外の何者でもないのに、失格者なのに私たちを愛し選ばれたのです。キリストを捨て、代わりに私たちを選ばれたのです。これ以上の不条理はありません。選びはただ恵みであって、選民意識はどこからも出て来ません。

  ですから、私たちの側は神への感謝、神への賛美、神への喜び、そして私の罪は常に私の前にあるとの告白が生まれざるを得ないのです。

  この事を私たち人間の方から見れば、信仰は一つの選択です。キリストによる神の恵みの選びを信じ、生涯にわたって選択することです。むろん拒絶の道も、無視の道も、鼻であしらう道も、逃げる道も、足蹴にする道もありました。だがそれをせずこの道を選択した。そしてその選択を生涯貫く。難しい状況が現れたり、もう捨てなさいという誘惑の声が聞こえさえするが、日毎に新しく神の恵みの選びを信じ直して、それを選択して行く。

  夫婦の間でも、そんな風に繰り返して相手を選び直して、惚れ直してでなくても危機を乗り越えていく所があります。ないですか?あった?友達でも、長く続く友はそういう歴史があるでしょう。

  パウロがテサロニケの信徒たちに、「あなた方が信仰によって働」いていることを心に留めていると書くのは、彼らが信仰の危機の中にあっても、日毎に新しくキリストの選びを感謝する道を選択し直して行ったからでしょう。

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  パウロは更に、テザロニケ人たちの「愛の労苦」を心に留めていると書いています。キリストが愛の道を選ばれたから、彼らも愛の道を選び取ったのです。愛の労苦。それは、希望ある世界を少しでも創り出して行こうとする歩みです。

  私たちは余り大変な労苦や、飛び抜けて素晴らしい労苦だけを想像してはいけません。そう考えるとビビってしまいます。自分の出来る範囲でいいのです。だが口先だけでなく、愛のために労苦しようと誠実に思う、その誠意が大事です。すると何らかの愛の労苦を実際にします。しかも謙遜な思いでします。それが、あなた方は地の塩、世の光であるという事でしょう。

  愛の労苦は、不信でなく信頼を創り出す歩みです。不信を掻き立て、何倍にも膨らませて生きる人たちもいますが、その人たちの間で、信頼を創り出すことの難しさがあるが、でも自分は信頼を創り出していく。敵意や憎悪、ムチャクチャな態度を取る人たちもいる中で愛の道を選び、憎しみでなく平和を創り出す歩みを選ぶ。

  愛は信頼を創り出すのです。信頼は幼稚な考えや、ロマンティックな夢物語ではありません。信頼がなければ何も生まれません。信頼を壊しては何も生まれません。何も建設しません。愛の労苦とはそういうものです。

  不信の道も、憎悪の道も、暴力や戦いや制裁の道もあるのですが、それらの道を捨ててこの道を選び取るのです。心の内で葛藤があります。愛の道でなく戦いの道に行きそうな誘惑さえあります。不信を募らせて攻めて来る人々がいると、こちらもケンカ腰になりそうなのです。だがイエスがおられるから、その誘惑に乗らず、信頼し、愛する道を選ぶのです。闇の道でなく、光の道を選択する。誘惑に乗らずということが大事です。誘惑があるが、愛の方に掛けるのです。そこでは労苦がギッシリ詰まっているでしょう。だが、誘惑を退け、葛藤し、葛藤を越えて、最も現実的な道として、祈って、信仰をもって愛する道を選ぶのです。

  愛を選ぶのです。愛に留まる道を選ぶのです。愛を選んだとは、傷つけて来る人々への怒りが爆発しそうであり、爆発しかかるのですが、その感情に歯止めをかけ、敢えて感情に逆らい、ギリギリのところで敢えて愛を選ぶことです。葛藤とはそのことです。その葛藤を乗り越える。その時、傷つける人たちへの悲しみが現われ、闇の力に飲まれている人たちへの執り成しの祈りとなって、労苦する愛が発現します。現れるのです。

  エジプトで暴力が起りました。それには相当の理由がありますが暴力によっては変わりません。むしろ悪化する可能性大です。

  労苦はキリストの側に立つ所から来ます。そしてこの労苦は、必ず神の御前に顧みられるでしょう。

  パウロはこのような愛の労苦をしている人たちのために祈るのです。そのような労苦はやがて実を結び、その町に福音が広まるであろうからです。

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  最後にパウロは、「あなた方はキリストに対する希望を持って忍耐していることを、…心に留めている」と語っています。

  これは既に1節をお話しした時に申しましたので、詳しくは言いません。テサロニケの信徒たちは、忍耐、忍耐と歯を食いしばり我慢に我慢を重ねていたのではありません。「希望を持って忍耐している」と言っています。「キリストに対する希望を持って忍耐している」とあります。暗い忍耐でなく、明るい忍耐。勝利を確信し、勝利を望み見つつの忍耐です。キリストにすっかり委ねたある種の楽天主義です。

  先日のNHKの「プロフェッショナル」という番組で、気仙沼畠山重篤さんという漁師さんの取り組みをご覧になった方もあるでしょう。津波でカキの養殖筏や工場がすっかりダメになる中で、海に信頼して、「それでも、海を信じて生きる」と養殖を再開して、息子さんと村の人たちと前に前に進んで行かれる信仰者の姿です。あそこに「キリストに対する希望を持って忍耐している」姿がありました。テレビではキリスト者とは出ていませんでしたが、歯を喰いしばり、眉に皺を寄せた忍ではない。悲壮感の漂わない、大変明るい、楽天主義です。「海を信じて生きる」と言っているが、それは主を信じて生きるということでもあるでしょう。信仰の楽天主義。多くの人が励まされたのではないでしょうか。

  そういう主にすっかり委ねた楽天がなければ、6節にあるような、「あなた方は酷い苦しみの中で、聖霊による喜びを持って…」というようなことは起こりません。前に申しましたが、この「酷い苦しみ」は、激しい迫害のことです。だが、聖霊による喜びを持ってみ言葉を受け入れ、勝利を望みつつ生きたのです。

  クリスマスは、希望を授けるキリストが誕生された日です。既に4つのランプが灯りました。今年は丁度25日が日曜日です。こういう年はめったに来ません。来週は、時が満々に満ちて5つの火が灯ります。私たちの心にも、希望のキリスト、愛のキリスト、信仰のキリストが生まれて下さるように祈りつつ、アドベントの残りの日々を過ごしましょう。



        (完)

                                          2011年12月18日



                                        板橋大山教会   上垣 勝


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