福音の3姉妹


                            リヨン美術館で
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                                          信仰、愛、希望 (上)
                                          Ⅰテサロニケ1章2-4節


                              (序)
  パウロは深い信仰の思想家、大伝道者ですが、それと共に祈りの人です。それは祈りの人であられたイエスの姿を継いでいます。その祈りは自分のためにだけ祈るのでなく、このテサロニケ人たちやフィリピ、コリントなど、彼が関わって来た全ての教会の人のために祈って来ました。このこともすべての人に開かれた祈りをされたイエスと同様です。

  社会には嫉妬や自慢や競走や対立が渦巻いていますが、パウロがこの手紙の後半で、「主に結ばれた者として…愛を持って心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい」と勧めているように、たとえそういう人たちであっても愛と尊敬を持ち、キリストの前に持ち出して祈ったのです。彼は問題な人たちには強い警告を与えることもありましたが、愛から出た警告であり祈りでした。

  このテサロニケ教会については、「祈りの度に、あなた方のことを思い起こして、あなた方一同について、いつも神に感謝しています」と述べています。彼はこの教会の働きを覚えていつも神に感謝の祈りをしていたのでしょう。

  もし私たちの教会が、創立者の大塩先生によって祈られ、祈りの度に私たち一同のために、「いつも感謝しています」と書いて来られたら、改めて私たち自身は身を正すでしょう。この小さな群れが信仰の襟を正し、主にふさわしく歩まねばならないと思って日々そう努めようと思うでしょう。信頼を受けている訳ですから、信頼を裏切らないようにと思うのは当然でしょう。

  パウロはそんなことまで考えてこう書いたとは思いませんが、受け取った教会は感謝を持ってそうしたでしょう。

                              (1)
  パウロは、テサロニケ教会のどういう事柄を思い起こして神に感謝しているのでしょう。それが3節の3つの言葉、今日の題の「信仰、愛、希望」です。「あなた方が信仰によって働き、愛のために労苦し、また私たちの主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることを、…父である神の御前で心に留めているのです」とあることです。

  信仰という言葉ですが、信仰は「ピスティス」というギリシャ語です。これは信仰とも真実とも訳せます。私たちの信仰・ピスティスの起こりは、キリストのピスティス・真実にあります。そこに信仰の始まりがある。この方の真実が、岩のような固い私たちの罪の心を砕いて下さった。牡蠣(かき)のように、何かがあると蓋を閉じて開こうとしない私たちの頑なな心をほぐして、キリストの真実に信頼しよう、その救いの御手におすがりしようとする信仰の心を起こして下さった。だから、信仰を受けた人は自分も真実と誠実を持って生き、人にも接しようということになるのです。

  それが愛の働きです。キリストへの真実な信仰、人格的な応答が、愛のために労苦するものとなります。そういうイエスへの真実な応答がなければ、気に喰わぬ人を突き飛ばし、撥ね退け、暴言も吐き、軽蔑も平気でするでしょう。このお方との関係がないなら、私たちはそうなりがちです。取引で関係ある相手なら手加減もしますが、関係なければ、愛の労苦をする義理はサラサラない。

  しかしキリストに結ばれているから、徒労に掛けて下さったキリストに応えて、私たちも徒労に掛ける。それが実を結ぶかどうかは、神のみが知る所です。だからキリストにあって希望を持って忍耐しつつ働くのです。

  皆さんの中には仲の良い3兄弟、あるいは仲の良い3姉妹の方がいらっしゃるかも知れません。ここに語られる信仰、愛、希望は福音の3姉妹とも言うべき睦ましい間柄です。信仰、愛、希望の3要素を備えて生きる。そこに福音の良き香りが漂うでしょう。今日は階段の上り口に、福井から送られて来た越前海岸の水仙が活けられています。厳しい冬の寒風の中で育つ自生の水仙で、いい香りを放っています。信仰、愛、希望も麗しい香りを放つのです。

  これら三姉妹はキリストから出て来ます。キリストを源として流れ出しているのです。ですから、信仰、愛、希望が涸れることがあるなら、源であるキリストに帰る時に、再び溌剌(はつらつ)としたものになり、香気を放ち始めるでしょう。キリストは生きた愛の方ですから、常に私たちを生き返らせて下さるのです。

  テサロニケ人たちは、謙虚にいつもこの方を源としていたから、地方の首都にある小さい群れですが、7節にあるように、マケドニア州、アカイア州のキリスト者たちの模範となるに至ったのです。謙虚は非常に大事です。当たり前というか、不思議というか、謙虚な悔い改めがあると信仰は新鮮で、いつまでも涸れないのです。

  教会の狭い庭にハーブの一種のチェリー・セージが植わっています。これは極めて水揚げが悪いです。切って花瓶に挿しても2、30分で萎れて来ます。でも水の中で鋏(はさみ)で水切りしてあげると、水揚げがグンと良くなる。水の中で鋭く切らなきゃあ駄目なんです。謙虚に、悔い改めると信仰の水揚げもよくなる。信仰はチェリー・セージみたいなんです。

        (つづく)

                                          2011年12月18日



                                        板橋大山教会   上垣 勝


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