イエスと明珠在掌


                          シェーンブルン宮殿の庭で
                               ・


                                           腕を伸ばす神 (下)
                                           出エジプト6章1-9節
        
                              (5)
  今日の所に、「私は主である」とありました。「私は、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という私の名を知らせなかった」ともありました。6節にも、「私は主である」とあり、8節最後にも同様に、「私は主である」とあります。

  主とは、ヘブライ語のアルファベットでYHWHと書きます。これをどう読むか。文語訳聖書ではエホバと訳されました。だがその後、世界の学者たちの研究でこれは、「ヤーウェ」または、「ヤーヴェ」と読むということが解明されました。ですから、私たちはエホバの神でなく、ヤーヴェまたはヤーウェの神を信じるのです。むろんキリストの神を信じるとも言えます。同じです。

  ヨハネ福音書には、「私はある」という言葉が何回も出てきます。(8、13章など)。イエスがおっしゃった言葉です。イエスは、「私はある」という方だというものだ、YHWHだと言っておられるのです。

  今、申し上げたいのはそのことでなく、「ヤーウェ」とはまことの神である主の名前ですが、3章にありますが、「私は在る。私は在るという者だ」という意味です。または、「私は在ろうとして、在る者。被造物を、在らそうとして在る者」という意味です。また、「誰が私の在るを否定しても、永遠に存在する者。実在する者」という意味でもあります。

  その私が、腕を伸ばし、奴隷として過酷な仕打ちを受け、虐げられているあなた方を救い出すと言われるのです。奴隷の身分から、重労働から贖い出す。偽りの主のもとから助け出し、まことの神、この世が否定しても断固存在する主のもとへ救い出す。私は在って在る者、実在する者であると言われるのです。神は、逆巻く波にも堅く動かぬ巌(いわお)のごとく実在するのです。

  明珠在掌(みょう・じゅ・ざい・しょう)という言葉があります。禅語でしょう。「明るい、珠が、ある、手のひらに」と書きます。明るい恵みの珠は、すでに自分の掌にある。他に探しに出かける必要はない。私たち一人一人の手のひらに刻まれてあるという意味でしょう。

  在るとか、刻まれているというと、もう何もしなくていいということになりますが、キリスト教的に考えると、神は永遠に今ここに、明らかに私たちの所に存在されるということです。神の腕は短くないのです。そのみ手を決して見くびることはできないのです。神を侮る者は、自ら掘った穴に落ちるでしょう。そのことは明るい珠(たま)のように明々白々なのです。そして更に、神が私たちの所に来ておられるということは、明々白々疑うすべがないのです。

  「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」2000年前、キリストが来られたということも、明々白々。それを信じ、手のひらに刻めば、明るい珠のように、高価な真珠のように、それは私たちの宝となる、永遠の命になって力づけると言うことです。

          (完)

                                          2011年12月11日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


       ・ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/ 

       ・板橋大山教会への道順は、下のホームページをごらん下さい。
                   http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/