原発の愚かさ


                            リヨン美術館で
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                                           腕を伸ばす神 (中)
                                           出エジプト6章1-9節
        
                              (2)
  イスラエル人たちは過酷な重労働に呻(うめ)き、神に訴えたのです。すると神は、アブラハム、イサク、ヤコブと立てた契約を思い出され、彼らを重労働の下から導き出し、奴隷の身分から救い出すと、モーセを通して約束されたのです。

  今日の所に、先ほど申し上げた「私」という言葉が10回出てきます。そして、「私があなた方を救い出す」と言われます。ここにあるのは、モーセや民の願望でなく、私と言われる神が主導権をもって救いを行なわれるということです。新しい歴史を切り拓かれる神です。歴史の未来を切り拓く神。出エジプトの神は新しい時代を目指して進む神です。

  別の観点からいうと、彼らは神に属する民ですから、理由もなく彼らを攻撃し、虐げるなら、火傷をするだろうということです。7章以下にある、蛙やイナゴ、ブヨや疫病や雹や暗闇など、9つの災いがファラオたちが受けたこの酷い火傷だったと言っていいでしょう。

  主なる神は「抑圧する者」の声でなく、「抑圧される者」の声を聞かれるということです。聖書の神は、我に罪なしと語り、私は見えると言い張る義人の神でなく、罪人の神、小さく弱くされた者の祈りを聞かれる神です。

  その呻きを必ず聞かれる。どんなに小さい声でも、蚊の鳴くようなか細い声でも、どんなに離れた所からの声も聞かれるのです。呻きを聞き、時が来ると歴史の中で現実に直ちに行動される神です。しかもイニシアティブをとり、先頭に立って進まれます。出エジプトの事件は、モーセがしたのでなく神が先頭に立って行かれたのです。神は時代を切り拓かれる。

  モーセはこの神から、あなた方はカナンではもはや外国人でなく、そこを祖国に生きるようになると言われます。国土を所有し独立国となると約束されたのです。大変大胆な約束です。

                              (3)
  モーセはこの事を民に語りました。「その通りイスラエルの人々に語った」とあります。少しも薄めず、誇張せず語った。預言者とは、神から言葉を預かって語ると書きます。モーセ預言者と言われるゆえんです。

  ところが圧制者の方針は、今後も圧制を続け、搾取し続けることです。もしイスラエルの民がエジプトを出たいなどと戯(たわ)けた事を言うなら、更に酷い目にあわせてやる。彼らに命じた建設工事のレンガ作りのため、材料の藁を与えるな。自分たちで藁を集めさせよ。しかもレンガの数量を減らしてはならない。ひっどい制裁です。

  会社の事務量が増えても、人員を増やしてくれない。誰かが退職しても、そのままの仕事量と人数。ノルマを引き下げるなというのです。職場環境が俄然(がぜん)厳しくなります。これが先ほどの、「彼らは厳しい重労働のために意欲を失った」という所までの厳しい弾圧だったのです。その結果、9節最後にある通り、彼らはエジプトからの解放を聞かされても、「モーセの言うことを聞こうとしなかった」のです。

  神が先頭に立って行こうとされるのに、神の道はまだ民の道になっていないのです。時が熟しているのに(だって、神が始めようと言うのですから時はまさに熟したのです)、始めないのです。全てのものには時があるとコヘレト書にありますが、神の時が来ているのに始めない怠慢の罪。だが、まだその時が来ていないのに始める愚かさの罪があります。怠慢と愚かさです。どちらも神に聞かず、自分の胸に聞いている。原発の愚かさも、まだトイレが作られてないのに高級マンションに住民が住んだ所にあります。実に愚かです。

  だが真の意味で神の時が熟した時に始める。ジャスト・ミートの開始をする。その時には、たとえリスクに見えても、大胆に始めると成功するのです。神の意に叶(かな)っているのですから。だが、民はモーセに抵抗し、意欲を失い、耳を貸そうとしなかった。

                              (4)
  それから約1200年たって、ベツレヘムに一人のみどり子が誕生します。イエスは、モーセとある点で類似しています。ヨハネ伝1章にあるように、イエスは自分の民の所に来たのに、人々は彼を受け入れなかったからです。

  イエスは余りに早く来過ぎたのでしょうか。モーセは余りにも早かったのでしょうか。出エジプトに際しファラオの抵抗はありました。イスラエルの民の不信仰がありました。だが実際に出エジプトを果たしたのではなかったでしょうか。時が満ちていたのです。イエスも、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とおっしゃいました。人々は悔い改めず、イエスを迫害して苦しめ、聞いても理解せず、追い出そうとしました。頑なでした。ここに第3の罪、傲慢の罪があります。

  だが、イエスは挫けずその道を行かれます。大胆に、「時は満ちた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られました。裁きではありません。彼らへの福音です。怠慢の罪、愚かさの罪、傲慢の罪を、金槌で叩き割って意志を通すというようなことでなく、愛と恵みによって、自らの体を十字架に掛けてまでして、時が満ちたことを指し示されたのです。

  神の国は、搾取される者も搾取する者も暴君もいない、愛の神の支配される国です。その国に向って、イエスは今、新しい歴史を切り拓かれるからです。イエスが来られたのは、この世の罪の隷属から新しい世界、新しい時代への一種の出エジプト。神による自由と解放への出エジプトでした。

  そこには、先ずガリラヤやユダヤの人々への実際の愛があり、全人類への究極の愛である十字架があります。罪の贖いです。そして復活。それらを通して神は人類に失望したり、愛する意欲を失っていないことを教えられました。

          (つづく)

                                          2011年12月11日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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