この世と聖書の見方の違い


                            リヨン美術館で
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                                           腕を伸ばす神 (上)
                                           出エジプト6章1-9節
        

                              (序)
  今日の聖書はモーセ時代の出来事です。今から約3200年前のエジプトです。イスラエルの人たちは、アブラハム、イサクそしてヤコブ、このヤコブの時代に、ですから更に430年ほど遡る時代に、世界中を襲った大飢饉のために、難を避けてパレスチナからエジプトに移住しました。

  昨夜遅く、天空の宇宙ショウがあって月がドロッと融けたような不気味な色に変わりました。古代人はどう思ったでしょう。3600年ほど前の大飢饉は宇宙的な何かが原因だったという説もありますが、はっきりとは分かっていません。

  族長ヤコブの一族はエジプトに降りましたが、やがて子孫たちはエジプト王ファラオによって奴隷生活を強制され、厳しく虐げられました。耐え難い程の虐げでした。あのピラミッドは、奴隷であったイスラエルの人たちの重労働、その犠牲によって建てられたという説もあります。

  ピラミッドのそばに立てば、それがどんなに巨大か。実に圧倒されます。周りは余りにも広大な砂漠ですが、それに決して負けないと言えるほどの、いや、やっぱり負けますが、実に巨大です。ピラミッドの内部に入れますがこれまた驚きです。しかもピラミッドにまだ解けない謎が秘められているというのですから、驚嘆せざるを得ません。

  驚嘆はしますが、驚嘆させられる巨大建造物の裏で、奴隷にされ、酷使され、多数の人命を奪われ、搾取され、人間として扱われなかった人たちの苦労の数々に思いを馳せる必要があるでしょう。

  ピラミッドの謎の解明がNHKテレビなどで放映されますが、テレビはこれを造らせた王たち、当時の支配者たちの栄光に光を当てますが、これを造らせられた奴隷たち、過酷な労役を強いられた人たちには殆ど目を向けようとしません。

  だが、聖書はこっちの方に、耐えられぬ程虐げられた人々の方に目を向けるのです。過酷な重労働ゆえに呻き神に叫んだ人たちの叫びにです。それが世が見る方向と、聖書が見る方向の大きな違いです。

                              (1)
  今日の聖書に、「私は彼らの呻き声を聞き」とあるのがそのことです。「私」とあるのは、主なる神です。エジプトの重労働に苦しめられて来た人たちの声を聞かれた主なる神です。私は、「エジプトの重労働の下から彼らを導き出し、奴隷の身分から救い出す」ともあります。「重労働」という言葉が3度も出て来ます。彼らは、いかに酷い仕打ちを繰り返されたか想像できます。

  9節には、彼らは、「厳しい重労働のために意欲を失って」とありますから、今日では想像を絶する過酷さであったに相違ありません。でも、恐らく強制連行でトンネルや運河を掘らされ、炭鉱で重労働を課せられて多くの犠牲を出した朝鮮人、中国人と同じ程だったかも知れません。来た九州の炭鉱では、こうした人たちの墓は犬猫など畜生たちの墓と同じところにあります。

  だがイスラエルの民は数年でなく、何百年間も奴隷生活を強いられ、自由を奪われ、弾圧され、虐げられ、弱く小さくされ、余りの重労働に「意欲を失った」のです。

  意欲というのは非常に大切です。意欲があると明日は明るく見えますが、意欲がなくなると、何を見ても悲観的に灰色に見えます。すると、口から出る言葉も暗くなり、投げやりになったり、ふてくされたり、トゲトゲしくなりがちです。

  教会で開かれているテゼの集いに、Aさんという教団の信徒の方が時々来られますが、この11月に東北の被災地にテゼのブラザーを案内して、教団の教会や各地で集会を持って来ました。釜石でもテゼの集会をもちました。また関西にも行って、16年前に阪神大震災で被災した神戸で、神戸栄光教会の牧師や信徒、他教派の人たちが呼びかけ人になって400人程の大きなテゼの集いを持ちました。その報告をブラザーが彼女が話したことを書いていました。被災地では毎日膨大な作業を目の辺りにしているので、その膨大さに圧倒されて、被災者だけでなく、ボランティアやスタッフ自身が一日の仕事を行なうための霊的な気力を補給されなければならない。多くのストレスを抱えて9か月が経ち、人々は苦しみと悲しみと苦悩と不信と疲れと戸惑いと心配で一杯になっているというのです。心身ともに消耗し、意欲を失いそうになっているという事でしょう。さもありなんと思います。だから精神的な力、信仰の力を補給されなければならない。本当だと思います。

  余りにも大きな事柄に直面すると、誰しも意欲を失います。皆さんは意欲を失いません?ですから、私たちはそれに打ち勝つ希望を与えられる必要があるでしょう。地震津波原発だけでなく、何事においてもそうです。職場でも、家族の人間関係でもです。経済のことでもそうです。

  前にいた福井の教会は福井大地震の時、町が壊滅的な被害を受けますが、それがどんなに大きな打撃であったか。並大抵なものではなかったようです。というのは、その3年前に大空襲を受けて町は灰燼と化してしました。どうして地方の田舎町がと思うでしょう。でも、あそこは繊維の町で、落下傘の布を織っていたんです。3年して、やっとそこから抜け出て復興しかけていたからです。このダブルパンチに、誰しも意欲を失いました。それで教会は外壁に、「せん方尽くれども、望み失わず」というみ言葉を大きく掲げて、街ゆく人たちを励ましました。

  「せん方尽くれども、望み失わず」です。方策がなくなっても、神により望みを失わず、です。ですから、せん方尽きるところでも、望みを捨てず愛をもって生きる。愛を失わず生きる。小事に忠実な者は、大事にも忠実であるということを胸に刻んで生きるということです。

  でも、余りの重労働の厳しさ過酷さに、イスラエルの人たちは「意欲を失って」しまい、大変な状況を迎えたのです。

  異国で生きるだけでも大変です。言葉が通じない。習慣が違います。顔立ちや膚の色が違うと信用されません。白人なら信用する。でも黒人やアラブ系の人だと、中々家に入れないでしょう。住宅も容易に手に入りません。身分証明書をいつも携帯し、少しのミスがあると警察に出頭を命じられる。

  異国にある者は立場が弱い。ですから住民に搾取されます。絞り取られる。立場が弱く付け込まれます。食い物にされます。搾取されるということはそういうことです。うまく操られます。窮地に立たされ易い。東南アジアからうまく操られて連れて来られた女性たちが、日本に来るととんでもない仕事に就かせられる。都会だけでありません。前の福井でも、フィリピンから女性が沢山来ていました。狭いアパートの1室で共同生活です。平日に祈りたいと教会に来ます。祈っている間、外で男が見張っています。逃げないかと。

  エジプトでは、弱い立場の彼らは徹底的に搾り取られました。神を礼拝するのも許可されない。信仰は弾圧されたのです。色んな場面で強者は弱者を食い物にします。一般的にいえば、彼らは穏やかに、敬意をもってなど事を行ないません。仲間にはそうはしませんが、下の者には大変尊大な態度を取ります。愛も思いやりもない。それを、国家権力をもって虐げられたのがイスラエルの場合でした。

          (つづく)

                                          2011年12月11日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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