イエスと父ヨセフのDNA関係


                            リヨン美術館にて
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                                        父祖たちの歩んだ道のり (下)
                                        マタイ1章1-11節


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  いったいこの系図は、何を私たちに告げるのでしょうか。これは福音でしょうか。喜ばしい訪れでしょうか。それともイスラエルの父祖たち、その歩んだ道のりへの厳しい告発でしょうか。

  結論から入ります。

  まず、聖書が私たちに語りかけているのは。あなたの家系や過去にどんな問題があり、どんなに人に言えないものがあっても、どんなに血統に汚れたものがあっても、イエス・キリストにおいては、それらは問題ではないのだ。あなたは受け入れられ、愛され、決して捨てられないと言うことです。

  更に、あなた個人の過去にどんなスキャンダラスなことがあり、拭えない事実があなたを苦しめていても、また神を蔑(ないがしろ)にして生きて来たとしても、イエスを信じて行けば、それらは必ず解決され、あなたは救われて行くということです。悔い改め、悔悛の狭い門が必要ですが、イエスは必ず救済して下さる。

  過去の姿が明らかになるのを恐れているかも知れないが、恐れる必要はない。怖がる必要はない。思い煩いを捨てなさい、案じる必要はないということです。

  イエスがこのようなメチャメチャとも言うべき系図をもって生まれたのです。イエスは、それらの過去の罪を一切引き受け、わが身に負い、我が事として、それらも用いて救いへと導かれるのです。

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  しかし、イエス・キリストの出生は、よく読むとお分かりのように、血統的にはここに書かれた人たちと、関係ありません。無関係です。父ヨセフまではアブラハムの血が流れていても、母マリアは聖霊によって身ごもったとすれば、イエスは父ヨセフと何の関係もありません。DNAはつながっていない。

  しかし、これがイエス系図と呼ばれるゆえんは、イエス・キリストは、こう言うスキャンダラスな到底あってはならない、誰もが口をつぐみたい父祖たちの歩んだ道のりにも拘らず、彼らに寄り添うために来られたということです。とんでもないことを仕出かしてしまった人たち、とんでもない事をしなくても、神への感謝を拒んだ人たちの只中に来られたということです。

  12月になり益々夜が長く、闇が深くなっています。闇が深まる中でアドベントを迎えて、私たちや社会の色んな破れも考えさせられる日々です。しかし、イエスは私たちの闇も破れも避けず、不信仰も避けず、とんでもない者たちも避けず、彼らの一切を引き受け、彼らと並んで歩かれるのです。

  普通なら、身内でも避ける人物たち。家系が汚れると言われて、絶縁されるかも知れません。だがイエスは彼らの問題を自分の問題として担い、絶縁するどころか、ご自分と罪人たちを強く関係づけ、救われ難い彼らを救おうとされるのです。イエス系図はそのことを示すのです。

  この系図が語るのは、福音であって、告発でも、断罪でもありません。闇の中に光が来たということであって、君たちは闇だ、駄目だということではありません。

  「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃったのはこの方です。主が、罪人と共にあろうと永遠に決意されたというのはこのことです。「光が闇の中で輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」とあるのはこのことです。

  心配いりません。案ずる必要はない。イエスが一切を変えて下さる。整えて下さる。過去を悔やんでも誰が変え得るでしょうか。だがイエスはそれらをご自分に引き受けて、ご自分と共に十字架につけて滅ぼし、葬って下さる。新たにして下さる。誰でもキリストにあるなら、見よ、全てが新しくされるのです。見よ、全てが新しくなったのです。

  大河はすべての支流を集めて海に注ぎます。上流、下流の汚水もすべて集めて海に至ります。そのようにイエスは、私もあなたも、人類の罪の全てを一身に集めて担うために来られました。

  インマヌエル、「神われらと共にいます」と1章23節にあるのは、このことです。そして、同じ言葉がマタイ福音書28章20節に再び出てきます。1章に出て来た言葉が最後の章に出て来て、復活のキリストが、「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と言われて、この福音書が終わります。今日の系図が告げるのは、裁きでなく、神は私たち罪人と共にいて下さるという福音の中心メッセージです。罪人と共に永遠にあろうと決意される神の子、イエスの福音の根幹を示すのです。

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  ローマ書6章に、「あなた方は罪の奴隷であった時は、義に対しては自由の身でした」とあります。今の訳は、これだけだとよく分かりません。前の訳は、「あなた方は罪の奴隷であった時は、義とは縁のない者であった」と訳していました。アブラハムに与えられた高邁な使命にも拘わらず、その後の父祖たちは「義とは」無縁になってしまったのです。自分の手でチャラにしちゃった。

  ローマ書はこう続けます。「その時、あなた方はどんな実を結んだか。それは、今では恥とするようなものであった。それらの終局は死である。」

  彼らのバビロン捕囚、その後の歴史の闇の中に深く沈没して行く彼らの姿は、アブラハム時代からすれば恥です。「終局は死である」という警告となった。そのようなことを続けていては、結局は「死である」と、人類への愛ゆえの警告を語るのです。

  だが、ローマ書6章は更に続けて語ります。しかしキリストの到来により、それが今年も迎えようとしているクリスマスですが、このお方の到来により、「今や、あなた方は罪から解放され、神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終局は永遠の命である。罪の支払う報酬は死である。しかし、神の賜物は私たちの主イエス・キリストにおける永遠の命である。」

  イエス・キリスト系図。この延々と続いてきた父祖たちの歩んだ道のりの最後に、永遠の命である方が来られる。系図は、このような素晴らしい約束を与えているのです。ですから、私たちは、クリスマスを待つアドベントの日々を、人生の新しい朝、永遠の命の始まりを待つ日々としても、歩んで行きたいと思います。

           (完)


                                        2011年12月4日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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