人生最大の難問


                            リヨン美術館で
                               ・



                                        父祖たちの歩んだ道のり (上)
                                        マタイ1章1-11節


                              (序)
  予告では今日は11節までにして、12節以降は次回に回し、イエス系図を2度に分けてお話ししようと思っていましたが、一度に17節までお話しすることに致します。それで12節以降を読ませていただきます。(聖書は省略)

  マタイ福音書は開巻劈頭、イエス・キリスト系図を置いています。聖書を買って、さあ読むぞと勢い込んで読み出すと長い系図があって、ここで躓いて投げ出す人たちが多くいます。聖書は狭き門です。中に入ると膨大な宝がザクザクあるのに、入口で諦めるのは勿体ない話です。

  聖書が狭き門なのは、少しも人に媚びないからです。ただ真理を真理として語るからです。また、求める人には必ず与えられるからです。何事も真理を知るには多少の犠牲は伴いますが、聖書はその苦痛に十分報われるものです。

  なぜ旧約聖書が終わり新約聖書に入ると、冒頭に読みにくい長い系図があるのでしょう。それは、1節に、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト系図」とありますように、これから紹介される人物は、これ迄の旧約聖書に登場して来たアブラハムダビデなど、旧約と無関係の人物でなく、旧約聖書の中心的な人たちと深い関係の中で来られたことを告げるためです。

  ですから、イエス系図は旧約と新約に橋をかけるのです。実際にはアブラハムからだと1800年間ですから、ここに書かれたより遥かに多くの代があったでしょうが、その主要人物が挙げられて、旧約聖書全体が最後的にナザレのイエスに向かって流れ込んでいること、その方において旧約の預言は成就したこと、イエスにおいてイスラエルの全歴史が集まり、そこに収斂(しゅうれん)していくことをマタイは語ります。

  旧約聖書を最初から読んで来た人は、ここに来て、ああ、この方が旧約全体が待っていた方なのかと合点がいく筈です。またその方が登場したのですから、ここに来て、無類の喜びが湧くに違いありません。

  ですから、マタイ伝は旧約を熟知しているユダヤ人のために書かれたとも言われます。確かに彼らには、系図が冒頭に置かれることによって、イエスが身近な者、極めてなじみ深い者になったに違いありません。

                              (1)
  「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト系図」とあります。イエス・キリスト系図は、創世記に登場するアブラハムイスラエル王国をつくったダビデ王に遡るということです。

  アブラハムイスラエル人にとって民族の父であり、民族発端の族長です。イサク、ヤコブなども無論錚々(そうそう)たる族長でした。彼等につながることは大いなる名誉です。しかも、アブラハムイスラエル人にとって血統として大事であるだけでなく、信仰の父であり、精神的な父でもあります。

  しかも、アブラハムは、創世記12章で、神から、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。…地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という約束を受けました。前の訳は、「地上のすべての民はあなたによって祝福される」となっていました。

  イスラエルだけという狭い民族主義ではありません。すべての国民、全人類の祝福の源になるという巨大な約束です。これほど巨大な、莫大な神の恵みはないでしょう。アブラハムと子孫に授けられた使命は人類祝福の基という限りなく重い光栄あるものでした。

  ところが、ユダヤ人はこの系図を見て、驚きもしたでしょう。というのは、どんな系図も、出来れば都合の悪い人物は省かれます。系図は家の名誉のために作られますから、家系を傷つける人物は最初から抹消したり、無記名にします。名前が分からぬのでなく、その人物を排除した。例えばハンセン病の家族は戸籍から抹殺したでしょう。すると無記名です。殺人をした。スキャンダルを起こした。すると系図から外します。

  だが、イエス・キリスト系図には立派な人物だけでなく、都合の悪い人物も何人も書かれています。ユダヤ人が見ればそれは一目瞭然です。

  例えば、タマルという女性は、ユダの息子の若妻です。長男の妻になり、長男が死んで次男の妻になった。ところが、ユダは息子の若妻との間で双子のペレツとゼラを生んだ。こんな破廉恥な姦淫の事実を表に出すのはとんでもないでしょう。末代まで家の恥です。

  また、ダビデは名君の誉れ高い人です。彼の名は家系の名誉ですからここに書かれるのは当然です。ところが、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンを」と書かれています。ウリアの妻、バテシバ事件は大スキャンダルでした。ダビデは、忠実な部下ウリヤの妻バテシバを孕ませた。しかもあろうことか、ウリアが戦地で戦っている最中に、彼は単なる性の満足を求めて孕ませたのです。だが、発覚しそうになると、世間を恐れて知恵を絞って巧妙に手を打ちます。すべてが行き詰った時、誰にも悟られない妙案でウリアを戦死させ、誰にも気づかれずにバテシバを我がものにしたのです。

  誰にも気づかれずにと申しましたが、その真相は密かに預言者ナタンによって気づかれていたのです。壁に耳あり、障子に目ありと申します。

  姦淫と殺人罪。情欲と暴力。暗殺の罪。このような罪の汚点がこの系図に書かれているのです。それだけでなく、イエス系図には、ユダヤ人が最も嫌った異邦人や遊女も出てきます。ルツやラハブという女性たちです。

  前半は、なぜか性にまつわるスキャンダルが多いです。確かに性というのは人生最大の難問です。性によって人生が狂う人たちは何人もいます。ほとほと自分の性に困ったという人もありますし、家族の性問題で波乱の日々だったという人もあります。金によって狂う人も多いが、どっちが多いでしょうか。いずれにせよ、性とか、民族の偏見とか、それが系図の前半の人たちを特徴づけています。

  次の7節以下の人物は、ダビデ、ソロモンの家系の王たちです。王国を世襲で継いだ南王国の王たちです。だが彼らが行なったことは、神に背を向け、反抗し、異教の神々を導入してでも経済的繁栄を追求するあさましい姿です。強欲で、利を貪り、貧しい人間を靴一足の値段で売買する人たちです。また富を築いた家の娘たちは高慢で、首を伸ばして、気取って小股で歩き、足首に房飾りを付けたり、鈴を付けて鳴らして歩いている。

  何か、今日の富める国の、セレブと言われる富裕層の人たちが描かれているような錯覚をします。自分は足元でなく、鍵束や財布に鈴を付けているですって?

  この王たちは闘争的で、野心的です。全人類の祝福の源になるような殊勝な気持ちは少しも持ちません。あわよくばすべての富をかき集める。自分が一番になる。一番、一番、一番。今は王たちだけでなく一般庶民も一番、一番、一番ですね。

  むろん善良な王、信仰に戻る王もいました。しかし、もはや焼け石に水です。すでにアブラハムへの世界を祝福するという約束は背後に振り捨てられていました。

  その結果、この王国が南北に分かれた後、北王国はアッスリア帝国によって、南王国は新バビロニア帝国によって滅ぼされてしまいます。その最後の王が11節のエホヤキンとも、コンヤとも呼ばれるエコンヤです。

  その後の人物が12節以降に上げられますが、殆どどういう人物か分からない者たちです。国家が滅亡した後、歴史の闇に飲み込まれ、海の藻屑と化した人たちです。もはやアブラハムに与えられた祝福の源という使命すっかり消え、彼ら自身が完全な闇の中に沈み、絶望の闇自身と化し、再生の望みが絶えた家系です。

  そして系図の最後に出て来るヨセフは、ナザレで大工をする男です。妻の初産に宿にも泊めてやれない男。影の薄い、存在感の希薄な男です。 彼の言葉は一言も書き留められていません。それほど吹けば飛びそうな男。ただ、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と書かれているだけです。これがイエス・キリスト系図です

  系図が語ることは、神の莫大な使命を授かったにも拘らず、やがて神に背を向け、その使命を捨てたということです。罪とは、神の恵みそのものを捨てること、拒否すること、そして自分自身の手で自分を救い得ると考えることです。犯罪だけではありません。神なしに生きること、神に感謝せず生きること。そのこと、感謝しないことを何よりも神に対してなす。それが罪の中心です。そう考えると、現在社会は相当に罪が極まっています。

       (つづく)

                                        2011年12月4日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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