光を証しする人


                            リヨン美術館で
                               ・


                                           光を証しする人 (下)
                                           ヨハネ1章1~9節


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  だが、バプテスマのヨハネは自分を輝かせようとしません。自分は「光ではない」、「その方の靴紐(くつひも)を解く値打ちもない者だ」と語って、ただ光だけを証しするのです。

  社会の闇を証しする人は多くいます。暴露する人です。彼もヘロデ王の悪を明らかにしました。ただ、彼の場合は光の道備えの中で、支配者の悪を暴露しています。しかも批評家的な暴露でなく、斬首を恐れず危険を冒し、実際に斬首されました。斬首の中でも彼の目は闇でなく、光に向いていました。

  別の言葉で言うなら、彼は光を証しするという喜びの道を選択したのです。彼は荒れ野でイナゴや野蜜を食しながら、光に仕える喜びの道を選択した。

  イエスは、「私は道であり、真理であり、命である」と言われましたが、真理を選択するとき、真理が私たちに力を授けます。本物を選択していると言う喜びがそうさせると共に、本物の持つ力がこちらを励まします。ですから、その選択は責任ある選択になり、どんな所でもそれを一貫して貫く選択になるでしょう。そのような選択をすると、心が定まって、その心の定まりによって、それが一層喜びになります。

  信仰、神への信頼。それはこの喜びの道、光に仕える道を選択することです。この選択が私たちを喜びへと向かわせるのです。

  バプテスマ、洗礼もまたそのような真理の選択です。私はイエス・キリストを主と仰ぎます。私の主は、この方以外の誰でもない。この方にのみ従いますという選択です。教会というのは、この父なる神、このイエス・キリスト、この聖霊を神と信じて、この方に従いますという選択をする者たち、またそれを願っている人たちの群れです。

  ですから、私たちは自分を証ししているのでなく、キリストを証しし、キリストに救われたことを証しする訳です。

  証しするという言葉は、ギリシャ語でマルチュスと言います。これは殉教をも意味します。ですからキリストを選択し洗礼を受けることは、時代によっては殉教もあり得ることです。今の時代は、殉教は考えられませんが、それほど真剣な選択であるということに昔も今も変わりはありません。

  昔、ある苦難にあった時、黙示録2章が勇気を授けてくれました。2章を読んでいて、9節に、「私は、あなたの苦難や貧しさを知っている」とありました。「私」とは、神と見ていいでしょう。その方が私に、「あなたの苦難や貧しさを知っている」と呼びかけて下さっていると感じました。神が、私のこの苦難を知って下さっているのなら大丈夫だと思いました。また10節には、「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはならない」とありました。私は実際その苦難を恐れていたのです。そこで、今私に一番必要なものを示されたと思いました。それで、私は逃げずに立ち向かおうと思いました。それから更に、「死に至るまで忠実であれ」ともありました。「死に至るまで忠実であれ。」そこまで覚悟を決めて進んで行こうと思ったのです。

  ヨハネは殉教しました。彼は身体をもって光を指し示し、身体、肉体をもって光なる方にお仕えしたのです。先程、彼は仕える道を選択したと言ったのはこのことです。彼は光に仕え、闇に仕えない。その選択の決断がヘロデ王さえ恐れさせたのです。

  キリスト者は皆、仕える人です。真に仕えるに値する方を見出した者ほど、幸いな者はありません。仕えるに値する方を持てば、腹が決まりますから、この複雑な世の中で、腹を決めて単純に選択して行くことができます。天に宝を積む。そういう単純な道です。そのことにおいてブレない。そういう主(あるじ)を、主人を持つことほど幸いなことはないのです。

  今、皆さんと礼拝をしていますが、祈りや礼拝をお考え下さい。例えば祈りを考えると、祈りの言葉はむろん大事です。どう祈るのか、祈りの言葉を考えるのは大切です。しかし、ブラザー・ロジェさんはこう言います。「身体なしに、どう祈るかを考えてはならない。私たちは天使ではない。だから、私は頭で祈るよりも、身体をもって祈るのです。」これはとても大事な発言です。キリストの前に身体を、肉体を差し出す。それが真の祈りになります。頭でなく、神の前に身体を引きずって行って差し出すことが最も大切です。

  耳触りのいい言葉や気のきいた言葉が大切なのではありません。身体を差し出して、そこから出て来る言葉が大事です。そこから真に光る言葉が出てきます。真実はそこに輝きます。

  日常社会でも言葉だけの人は信じがたいです。いいことを言ったりしますが責任が伴わない。そういう人を誰が信用するでしょう。言葉と身体、言葉と行いが一体であるとき信用できます。身体を神の前に差し出さない信仰になってしまうと、それは思想や感情だけですから、いつの間にか信仰はどこかに飛んで行きます。私たちは決して天使ではないのです。

  ヨハネは身銭を切る人です。身銭を切るからその言葉は重いのです。証しとは本来そういうものです。

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  最後に、「彼は光について証しするために来た。その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とありました。この光は4節、5節を見ると、暗闇に輝く光です。物理的な冷やかな光でなく、「人間を照らすまことの光」です。人の心と人生を温かく照らす光、人生の方向を示す光、人の命の源となる光であったとあります。

  そしてこの光は、更に遡って1節から3節を見ると、その起源は神の内にあります。はるかな神の領域まで遡ることができるものです。そしてそれは「言(ことば)であった」。神と共にある「言」であり、「この言は神であった」と語られるのです。それが、私たちが信じる神の子、永遠なるイエス・キリストというお方です。クリスマスはクリスマス商戦の掻き入れ時ではなく、その方が世に来られたことを迎える時です。

  ヨハネは、すべての人を照らす、まことの光を証しするために遣わされたのですから、その使命を心から喜び、どんなに誇りに思ったことでしょう。ヨハネは人間です。私たちと同じ被造物です。ですから、私たちもヨハネと同じように、人間の命の源である方、命の光である方を証しすることへと召されています。

  いや、ヨハネは獄中で斬首されて、キリストの十字架も復活も知らなかった。だが私たちは既に十字架と復活に触れています。ですからヨハネ以上に喜びを、福音を証しできるのです。ヨハネは陰です。しかし私たちは積極的に陽であることができます。喜ばしい福音の証しをすることができます。

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  旧約聖書には、エルサレム神殿に常に灯が灯されていたと記されています。私は皆さんのために常に祈り、この6年半、皆さんの名をあげて日々小さな祈りのともし火を灯し続けて来ました。私にとって、皆さんのために祈れるこの祈りの時は、格別嬉しい時間です。

  しかし、私の祈りのともし火は本質的には何の価値もありません。イエスが、皆さんのために、十字架の上で、死に至るまで命のともし火を灯し続けて下さった。その祈りのともし火に比べれば、いささかも重さを持ちません。羽毛以上の軽さです。しかし、イエスが死に至るまで、私たちの犯した罪の最後の一滴に至るまで贖い取るために、十字架の上でその貴い命を限りなく注いで下さったのです。イエスが灯して下さったこの命のともし火こそ、最も尊いものです。

  この光が、私たちの闇の中で、まことの光として輝いています。私たちの暗い心の闇、その闇の底の、底の、一番底にある真っ暗闇まで来て、まことの光として決して消えず輝いておられます。私がその光を認識していない時にも。この光があるなら、どんな闇が来ても私たちは滅びることはないでしょう。

          (完)

                                      2011年11月27日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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