天才がだぶついている


                            リヨン美術館で
                               ・


                                           光を証しする人 (上)
                                           ヨハネ1章1~9節


                              (序)
  2011年のアドベントは今日から始まります。皆さまと主のご降誕を待つ1カ月を過ごすことができるのは、嬉しいことですし、美しいことです。私は青年時代からほぼ50回、アドベントを迎えました。でも、くたびれたということはありません。今年も、心の片隅に何か嬉しいものが湧いているのを感じています。光のような何かが発芽するような、うずうずするのを感じます。皆さんの中にもそういう方がおられるに違いありません。

  先週の水曜日の夜、D君が初めて言葉をしゃべりました。前にもありましたが、あの時はそんな気がしただけでしたが、今度は本物のようです。「バっちゃん」と言いました。「みっちゃん」とも言いました。「ジっちゃん」とは言ってくれなかった。彼も心にうずうず、何かが発芽するように喉に突き上げて来て、言葉になったのでしょう。先日の子ども祝福式で言葉のことをお祈りした所でした。聞かれたのですね。Dのことはそれでいいですが、私たちはアドベントを迎えて、何か嬉しいものを待つように御子の誕生を待ちたいと思います。

                              (1)
  今日は6節以下のバプテスマのヨハネについて書かれた個所に絞って学びましょう。もし陰と陽2つがあるなら、彼は陽の人でなく、陰の人です。日蔭の人。彼は待つ人であり、指し示す人であり、いつまでも脇役です。

  自分はいつも脇役ばかりで来たと、自嘲的に言う方があるかも知れませんが、彼は脇役に徹しました。普通なら主役を羨んで、歯を食いしばって涙するかも知れないし、闘争心を燃やすかも知れません。しかし彼は、そんな脇役ではありません。やがて来るべき方を望み見て、脇役を喜んだのです。楽しんだのです。前方に来る希望の光を待望して感謝した人です。そして、生涯をその道備えのために捧げました。

  別の福音書では、彼は荒れ野に現われ、ラクダの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、イナゴや野蜜を食料としていたと書かれています。ラクダのゴワゴワの毛皮、イナゴ、野蜜は、貧しさと質素、粗末さの象徴です。こんな粗末なものを食べていたのは、来るべき方の前で自分は取るに足りない小さな存在である、粗末な者に過ぎないことを証しするものだったのでしょう。また、真実さの表われでもあったでしょう

  ヨハネの外見はそうでしたが、その心は、やがて来るべき方がいらっしゃるという期待で、燃えていたのです。ですから、私たちが過ごすアドベントの心も、ヨハネの心と同じように、小さくあっても燃えていたいと思います。

                              (2)
  6節に、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」とありました。彼は神から「遣わされた」のです。自分から来たのではない。気づきませんが、私たちも元来はそういう者です。無論たいていは、自分で生きている、自分で来たと何となく思っていますが。だが、そうではないのは明らかです。

  ヨハネは自分から来たのでないと自覚していました。自分は神のみ子でなく、単なる被造物だが、神に根源を持つという自覚です。「神から遣わされた」とはそういう自覚です。ですから、彼はこの世にではなく、神に目を注いでいた。そこから目を離さなかったのです。そして、神の子の出現を待ち望んでいたのです。

  7節に、「彼は証しするために来た。光について証しをするため、また、全ての人が彼によって信じるようになるためである」とある通り、光を待望することに徹し、それを証しした。

  今の時代は、自分を輝かしたい、自分の才能を発揮し評価してもらいたい、即ち自分を証ししたいという傾向が強い気がします。自分を見てもらいたいという人たちがあちこちに一杯います。

  それは一概に否定できません。できればその人たちがご自分の得意を発揮してもらいたいと思います。従来の儒教的な家父長的な封建的な制度の痕跡が残る中で、そこから解放されて、出来るだけ自分を輝かしたいと、これまでの社会への反動があると思います。

  新聞もマスコミも輝いた人を登場させます。光を当てて注目させます。出来れば天才とまでおだてながら光を当てたりします。ですから最近、日本に天才が多いです。天才が出回って、だぶついている所があります。別の言い方をすれば、言葉のインフレーションが起こっている。

                              (3)
  だが、バプテスマのヨハネは自分を輝かせようとしません。自分は「光ではない」、「その方の靴紐を解く値打ちもない者だ」と語って、ただ光だけを証ししようとするのです。…


        (つづく)

                                      2011年11月27日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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