神の沈黙と信仰


                            リヨン美術館で
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                                           関係の中で生きる (上)

                                           Ⅰテサロニケ1章1節


                              (1)
  テサロニケ第1の手紙はパウロの現存する最古の手紙です。西暦50年の夏頃にコリントの町で書かれただろうと思われます。コロサイ書に続き、これから時々、ご一緒に学び続けたいと思います。

  使徒言行録16章には、パウロはシルワノ(別名シラス)とテモテを伴って、今のトルコのトロアスから対岸のフィリピまで約200kmを船で渡りました。トロアスは「トロイの木馬」で有名な遺跡が近くにある港町です。途中サモトラケ島に直行し、そこからフィリピに行ったと書かれています。このサモトラケサモトラケのニケで有名な島です。ルーブルにありますが、大きな翼を広げた素晴らしい彫刻です。

  フィリピに渡った時、パウロが生まれて初めてヨーロッパ大陸に足を踏み入れる第一歩になりました。フィリピで伝道し、小さいが美しい信仰を抱く、しっかりした教会がリディアの家で「家の教会」として生まれます。だがパウロは迫害にあって投獄されています。

  出獄後、次に南に約100km下ったテサロニケに赴きました。今はテサロニキという地名になっています。この町はローマ帝国マケドニア州の首都、州都でしたから、かなり大きな町だった筈です。彼はそこで、ユダヤ教の会堂に入って旧約聖書からキリストの福音を説き起こしています。先程の詩編交読で何度も「王」という言葉が出て来ました。交読していて皆さんはこの「王」をどういう人物として読まれたでしょう。天皇を思って読まれましたか。肺炎とか、でないとか。でも、新約からすると、詩編のこの王は王の王であるキリストの暗示、預言といえます。パウロ旧約聖書から、そんな風にしてキリストを証ししたのでしょう。

  この町でもギリシャ人の有力な婦人信徒や、ユダヤ人信徒が誕生しました。そのことは使徒言行録17章に記されています。

  しかしテサロニケに生まれた信仰の群れは、入信直後から数々の迫害に遭い、苦難を経験しました。だが試練に耐え、乗り越え、信仰的に育って行ったのです。

  皆さんの信仰の歩みはいかがでしょうか。厳しい試練や苦難に遭いながら信仰を失わず来たという方もおられるでしょう。Hさんは今日は具合が悪くどうしても来れないと先程お電話がありました。ぜひお祈り下さい。15年程ろくに食事が摂れません。大腸をほぼすべて取り除き、小腸が僅かに残るだけで15年。でも洗礼を受けられて、教会に来られるHさんはお顔が輝かいておいでです。テサロニケの信徒は最初から苦難に直面したのです。さぞ大変だったでしょう。

  6節をご覧ください。「あなた方は酷(ひど)い苦しみの中で、聖霊による喜びをもってみ言葉を受け入れ、私たちに倣う者、そして主に倣う者となり…」とあります。この「酷い苦しみ」とは、迫害のことです。それも、激しい迫害です。前の訳では、「多くの患難」となっていました。彼らは、耐えられぬ程の酷い迫害にもかかわらず、喜びをもってキリストの福音を受け入れ、パウロたちの信仰に倣うと共に、十字架のキリストに倣う者になったのです。彼らは高価な犠牲を伴う信仰をもって歩み出した人たちであったと言っていいでしょう。

  ところが次の7節に、テサロニケ教会は、「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」とあります。テサロニケ教会はマケドニア州にありましたが、コリントやアテネがあるアカイア州をも含む、現在のギリシャの国の大半に生まれていた諸教会の模範になったのです。

  一時的な迫害でなく継続的な迫害です。彼らとて、神のご支配が見えなくなったでしょう。聞こうともがいても、主の声が聞こえない。神の沈黙です。遠藤周作は「沈黙」の小説の中でキリシタンたちの絶望的な場面を描いています。信仰をもつことで損をし、不利益を被り、しかも神が沈黙したまま答えられない。

  神が沈黙し、キリストも信仰も分からなくなる。皆さんならどうされますか。だが彼らは、執拗に神に祈りました。神が沈黙する中でも、敢えて信仰の道を選び、繰り返し神を信じて行ったのです。3章7節には、「兄弟たち、私たちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなた方の信仰によって励まされました」とあります。そう言う中で、パウロたちの方がテサロニケの人たちによって励まされた。パウロはそう書くわけです。

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  さて、今日の聖書はごく短い挨拶だけです。「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなた方にあるように。」それだけの文章です。でも、ここに、この手紙の特徴が顔を見せています。

  まず、恵みはカリスという言葉です。これはギリシャ語から来た言葉です。平和はシャロームです。こちらの方はユダヤ人のヘブライ語から来た言葉です。即ちこの教会にギリシャ人とユダヤ人が集まっている訳ですが、彼ら全てへの祝福が語られる訳です。ユダヤ人だけとか、ギリシャ人だけでなく、そこに集まる人が例外なく祝福を受ける。それから、もう一つの特徴は、「神とキリストに結ばれている」という言葉です。

  「神とキリストに結ばれている」とは、「神とキリストにある」とも、「属している」とも訳され、その「み手に置かれている」とも訳せます。神とキリストへの人格的な強い結びつきが語られています。

  私たちは皆、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けます。父なる神と子なる神と聖霊なる神の名によって洗礼を受けるということは、この三位一体の神と私たちが人格的に結びつけられたことを言い表わしています。ですから、洗礼が授けられるや「アーメン」、本当にそうですと言うわけです。岩の如くこのことは確かですと会衆全員が応えて、「アーメン」と唱えます。この受洗者が三位一体の神の恵みの下にあること、憐れみ深いこの神に属していること。そのみ手の下に置かれたことを感謝するのです。

  信仰は、神とキリストにつながっていると思うことではありません。それは何の値打もない。信仰は、神とキリストにつながっていると思うことでなく、つながることです。つながっているのです。その事実は動かない。

  そうなのですが、試練が長く続くと、誰しも神への信頼が消えそうになります。消えかかると、自分の信仰が疑わしくなり、弱気になります。激しい迫害でテサロニケの信徒たちも、そんな危険な所に置かれたでしょう。

  それはサタンの誘惑ともいうべきものです。サタンは神と私たちの間を裂こうとするからです。神を疑わそうとします。そういう中で彼らに、パウロは、「あなた方は神とキリストに結ばれているのだ」と語って励ますのです。激しい試練で、あなた方の手が神とキリストから離れそうになり、信仰の弱さを露呈するが、神とキリストの手はあなた方の手を放されることはないのだ。堅く結ばれている。必ず守られる。神とキリストは、言わばご自分の体にあなた方を堅く結びつけられたからだ。だからあなた方の方も、堅くこの方に結び付いていなさい。パウロはそう言うのです。

  その結果、テサロニケ教会はご自分の体に堅く結び付けて下さる神とキリストに、繰り返し立ち返って信頼して進んだのです。自分の力や、自分の知恵で生きたのではありません。自分を越えたお方との関係で生きた。だから、彼らは酷い迫害に堪え、希望をもって忍耐し、その中で諸教会の模範にさえなったのです。

  今、「希望をもって忍耐し」と申しましたが、これは3節の言葉です。テサロニケ教会は、息詰まる重苦しい忍耐を、苦虫を噛み潰したような顔でしていたのではありません。希望が彼らの顔を明るく輝かしていました。

  試練は私たちを、火で鍛え、清めます。神は無慈悲な方ではありません。愛する者を訓練し、鍛えられます。火で精錬し、純粋な者に造って行かれます。神の子として、尊く取り扱っておられるからです。愛しておられるからです。

         (つづく)

                                       2011年11月20日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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