ブッダも、神の愛の中で生まれた


                            リヨン美術館で
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                                           とこしえの愛 (下)

                                           エレミヤ31章3節


                              (2)
  さてエレミヤは、「私は、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」という神のみ言葉を聞いたのです。この「私」は神を指しています。1行目の「私」はエレミヤ自身でしたが、2行目の「私」は神です。前の訳にはここにカッコがあったのでよく分かりましたが、今はないので、1行目の「私」と2行目の「私」を混同しがちです。

  さて、ここに「慈しみを」とあるのは、「ヘセド」という言葉です。変わらぬ真実な愛。相手に誠実を尽くす意志的な愛です。相手が裏切っても裏切らない。そういう不変の愛です。イスラエルの民が契約を破っても、神は永遠に変わらず契約を守る。それがヘセドです。

  「変わることなく」とは、永遠という意味です。過去、現在そして将来にわたって慈しみを注ぐということです。即ち、私たちはこの世に生を享けて神に愛される者になったが、死ねばそれをやめるのではないのです。神に愛されているのは、永遠のことです。死ねば用済みになって、神から捨てられるのではない。人は用済みにしても、神は永遠に用済みになさらない。永遠に愛されます。

  ですから、私たちは永眠者を覚えて礼拝していますが、この方々は今なお、神が愛しておられる方です。ですから、私たちはすっかり過去になった者として扱っているのでなく、今も彼らが神に愛されていることを喜び、感謝してこの礼拝をもっているのです。

                              (3)
  自分の意志で生まれた者はいません。誰であれ、仏陀孔子マホメットも、神の許しによって命を与えられ、存在する者になったのではないでしょうか。神の愛なしに誰も存在することはありません。

  ですから、私たちにとって一番大事なものは、私の命の源である方を知り、このお方の中に自分の源、根源を持つことです。このお方に自分の存在の根を下ろすことです。それは、自分の中心を持つことでもあるでしょう。

  木は、皮の表層部分と堅い芯の部分からなります。芯の部分は年輪を刻みます。樹皮には樹液が流れていて、そこが活動的な部分で、そこが木を成長させます。この活動部分は、幹の中心核である芯の部分で支えられているから、安心して成長が可能になります。この事は、たとえ樹齢7千年の屋久杉でも、1年目の小杉でも全く同じです。

  人間もまたコアになるもの、中心になるものを持たねばなりません。中心を持つ時に、力強く生きることができるのは当然です。

  神を信じるのは、弱い者のすることではありません。そうではなく、本来あるべき所に戻ることです。本来あるべき所に戻る、それが人としての中心を持つことです。命の根源に戻って生きることです。

  今日の17節をご覧ください。「あなたの未来には希望がある、と主は言われる」とあります。希望があるのは、ヘセド、必ず契約を守る神の変わらぬ愛があるからです。また、25節には、「私は疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」とあります。疲れた魂や衰えた魂に力が与えられるのは、再びその魂が源に与るからです。

  先日、川越街道の向こう側に住む知らない方が相談に来られました。定年間もない方で、長く高校の教員をして来られました。奥様も教員です。最近、老人性のある病気で倒れて、暫らく休職中でいらっしゃるということでした。お子さんの一人が独立し、もう一人の方ももうすぐ社会に出ることになります。

  休職して、一人ポツンと家にいると、子どもが小さかった頃の思い出が懐かしく蘇って来て、感傷的になって、涙が出て来るんだそうです。そういう中で、今後どう生きて行けばいいのか、不安を隠し切れなくなり相談に来たと言っておられました。本当に真面目に生きておられる方のようでした。

  人は生きている限り皆、喪失を経験します。1つの喪失は子供が育って親離れする時でしょう。親の方は愛しい思いがあるのに、子どもの方はサッサと後ろを振り返らず独立して行きます。すると、これまでは何だったのかという思いをさせられます。まるで捨てられたような淋しい気持ちです。

  親の喪失もあるでしょう。親の死にショックを受けない人もあるようですが、強い繋がりで生きて来た方は、立てない程の打撃を受けます。だが夫婦の一方が先立つ時、その喪失は中々手ごわいものです。無論他にも、体の衰えや、昔できたのに今は出来ないことの悲しみも、この喪失感の一部です。

  私が言いたいのは、「私は裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう」と語ったヨブの言葉は、永遠に真実だということです。誰も向こうに、何かを持って行くことはできません。みんな平等に裸になります。だが、私への神の愛は死後も永遠に続いています。

  そこでヨブは続けて、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と歌いました。ここには、神にすっかり明け渡した単純率直な素晴らしい信仰があります。この単純率直な信仰が、これまで述べて来た永遠なる神に源を置く信仰、神に命の根源をもつ信仰です。

  人の存在の源であるお方への信仰が、このお方に委ねる信仰こそが、いかなる喪失に遭っても乗り越えさせる力になるのではないでしょうか。それは信仰が持つ力であり、叡智でもあります。

  私はこの先生に、今後の生き方について思う所をお話させて頂きましたが、お帰りになってから、今申しました、人の存在の根源に戻る生活もお話しすればよかったと思いました。いや、それが最も大事なことだと思いました。

           (完)

                                        2011年11月13日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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