70男なのに愚かですね


                            リヨン美術館で
                               ・

                                            とこしえの愛 (上)
                                            エレミヤ書31章3節


                              (序)
  今日は、私たちの教会に関係し、教会員として御許に召された兄弟姉妹を覚えて永眠者記念礼拝をしています。また現在出席している方々の亡くなられたご家族も神様のみ前で覚えています。写真の方々だけでなく週報の裏面にある、召された大山教会の皆様のお名前をお読みします。*印が教会の方です。

  … 中略 …

  さて、私たちの教会がこの日に子供の祝福式をしますのは、信仰を持って召された方々の思いは、今後も教会から信仰を継ぐ人が出て欲しいということでいらっしゃいました。ですから、この日に小さな子供たちに神の祝福を祈って、将来この方々の信仰を継いで欲しいという思いで永眠者記念礼拝と幼児祝福式を同時に行っています。ですから、今日の礼拝において、過去と未来がこの礼拝で一つに結ばれていると言ってよいでしょう。

                              (1)
  今日の聖書は、今から2600年ほど前の預言者エレミヤのものです。今日は3節だけを読んで頂きましたが、この31章には当時のイスラエルの国の復興、再建が語られて、喜びと希望のメッセージが散りばめられています。

  例えば、4、5節には、「再び、あなたは太鼓を抱え、楽を奏する人々と共に踊り出る。…サマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人がその実の初物を味わう」とあって、再び町には心を躍らせる楽器の演奏が流れ、ダンスが戻って来て、労働や収穫も始まると、希望に満ちた将来の到来が語られます。

  「遠くから、主は私に現れた」という言葉は、空間的な距離をイメージさせますが、原文は時間的な遠さのことを指しています。いにしえの昔からあなた方を愛して来られた主なる神が、再びエレミヤを通しイスラエルに現れて下さったという意味です。この「私」は預言者エレミヤのことです。

  昔会った人が自分のことを覚えてくれていたり、昔、交わした約束を覚えていてそれを果たしてくれたとなると、実に嬉しいものです。

  先週の日曜日に、前任の教会の方で、15年ほど前にご主人を失くされた方から電話を頂きました。今はもう90歳近い方ですが、長崎に移って老人ホームに入っておられます。電話の内容は、海外勤務の息子さんが電話をくれて、「母さん、聖書を読んでいる?お祈りしている?日々、聖書に養われていなさいよ」と言ってくれるというのです。息子さんはまだ洗礼を受けていないのですが、父親の葬儀の時、私から聖書の重要さを説かれて、それが今も胸にあるらしく、「自分に『聖書を読みなさいよ』と言ってくれるんです」と、嬉しそうにおっしゃったのです。

  私との約束ではありませんでしたが、この息子さんは海外にあってもお母さんを思って、私から聞いた一番大事なことをお母さんに言っておられる。お母さんはそれが心から嬉しいんですね。それで礼拝前でしたが、長崎から長距離電話を下さったんです。

  この8月にフランスのテゼに行きました。テゼは低い丘の斜面にある戸数10戸ほどの小さな村です。ある日、なだらかな坂を下って村を通り抜け、丘の中腹に数頭の馬が放牧されている側を通ったりして散歩していましたら、他の若者たちから離れて、石に座ってギターを弾いて歌っている女性がいました。

  若者らしいサングラスをかけて、初めは何歳くらいかよく見てとれませんでした。アメリカのカントリー調の歌で、直感的に素晴らしい歌に思えましたので暫らく聞かせてもらいました。歌が終って話しかけると、今年18歳になったばかりの娘さんでした。自作の歌だそうです。アメリカのテキサスからたった一人でテゼに来たそうで、秋から大学に入るとのことでした。牧場を背景に写真を撮ってあげて、帰国後メールで送ってあげました。そして、よければその歌詞を教えてくれないかと書き添えました。写真を取ってあげたのは、ぜひ歌詞を知りたいと思ったからです。

  だが女の子からは、なしのつぶて。別にモーションをかけているつもりはないんですが、70男に用心したのでしょうか。1ヶ月たち、2ヶ月たっても返事がない。しかし私は愚かにも、待つとはなしに待っているんですね。すると送ってあげたのにという思いが募るんです。70男なのに、愚かですね。

  先週、パソコンのメール・ボックスに見慣れない人の名がありました。見ると、私が送ったメールへの返信メールでした。嬉しかったですね。待ち人来りぬと言った感じでした。

  読むと、あれからフランスをあちこち旅し、スペインのマドリードであったカトリックの世界ユース・デイに出てから、予定より長くスペインを旅してテキサスに帰って来たこと。帰国すると膨大なメールが来ていてうんざり。それに入学後の様々な手続き、学校や教会での色んな活動。それにエル・パソという町の青年会議とか、市政担当者たちとの会合などで忙しかったことなどが書かれていました。アメリカの青年は大学生になるともう市民として市政に参加したりするのでしょうか。びっくりしました。

  そして最後に、彼女が作詞作曲した「気取らず自然に生きよう」という長い歌詞が記されていました。誠実な女の子だったようです。それが中々いいんですね。深く真実な魂が窺える歌詞でした。こんな魂を持っている18歳の女の子が、世界にいることを知っただけでも、嬉しいことです。

  1節だけ紹介しますと、「私が死ぬ時には悲しんで欲しい、慈しんで欲しい、私が気取らず日々なしていた小さな事柄を覚えて。」大きな事柄や立派な事を覚えて欲しいというのではなく、自分が日々為していた小さな事柄を思い出して慈しんで欲しいと語っている。素晴らしい視点だと思いました。

  あちこち行きましたが、今言おうとしているのは、遠くの人でも覚えていてくれるのは嬉しいことですが、エレミヤは、主なる神様が、非常に遠い昔からイスラエルを愛して下さっていた主なる神が、今また現れて、覚えて下さっていることを知ったと、喜びの中で今日の言葉を記していることです。

        (つづく)

                                        2011年11月13日




                                        板橋大山教会   上垣 勝


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