希望の芽が弱さの中で見えている


                            リヨン美術館で
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                                          キリストの力が宿る時 (上)
                                          Ⅱコリント12章7-10節



                              (序)
  12章1節から今日の10節までには、「誇り」という言葉が7回ほど出てきます。大変多いですね。

  「誇り」という漢字は、跨ぐという漢字の親戚です。誇りは言篇ですが、「跨(また)ぐ」は足篇です。「跨ぐ」というのは、足を大きく張って障害物とか相手を越えて行く姿です。ですから、言篇に「跨ぐ」の右側を書く「誇り」という漢字は、言葉で相手を越えて行く行為です。即ち威張ったり、見下げたり、自分はあなたに勝っている。上だと語り、そういう態度を取ることでしょう。

  これは自己をしっかり持つことと、似ていますが違います。似て非なるものです。自分は自分である。自分はこれで十分である。今は小菊のきれいな季節ですが、例えば自分は紫色の小菊である。だからこの色の自分という小菊しか咲かせられないが、その限界の中でしっかり咲いていけばいい。他の色の小菊も素敵だし、別の花もいいが、自分はこうなのだからこれを生かして生きる。これが、自己をしっかり持つことだと言っていいでしょう。

  しかし誇るというのは、他と比べて優位に立とうとする態度です。比べる必要はないのに、比較して優劣を付ける。

  パウロは「誇り」という言葉を沢山使っていますが、自分を誇るためにこう言っているのではないということは、前後関係で明らかです。反対に、彼は6節で、「誇るまい」と言っています。そして誇る人たちに対して、もし私が誇るとすれば、5節にあるように、自分の「弱さ以外には誇るつもりはありません」というのです。それは既に11章30節で、「誇る必要があるなら、私の弱さに関わる事柄を誇りましょう」と言って来たことからも分かります。この事はまた後で戻って来ます

                              (1)
  さて、第2コリントのテーマの1つは、真の使徒と偽りの使徒の区別です。著者のパウロが偽りの使徒として攻撃されたので、それを区別して語りました。彼によれば、偽りの使徒というのは、11章や12章の今日の先で出てきますが、「大使徒」と称する人たち、彼は彼らを「スーパー使徒」と呼んでいます。どう言う者たちかと言うと、自分たちは偉大な信仰的な賜物を持っていると自慢している。色々と信仰の知識を積み、悟りを開き、自分は俗人と違うという態度で生きている。霊的体験やカリスマを授けられたとも述べている。言葉滑らかに聖書を説き、説得性も地位もあって、そのことに得々と酔っている。それは自分の肉を誇っているにすぎない。そういう大使徒、スーパー使徒を彼は偽りの使徒と語っています。

  コリントの人たちは、パウロを離れて、このスーパー使徒の方に傾いて行った。そこでパウロは、自分は誇りたくないが、愚か者のようになってやむを得ず誇ろうと述べて、自分はそういうスーパー使徒に少しも引けを取っていないと縷々具体的に述べた後、止めを刺すかのように、自分は13年前に第3の天にまで上げられた素晴らしい人を知っていると、恐らく自分のことを述べたのです。それが今日の直前までに書かれていることです。

  その後今日の所に入って、そういう素晴らしい啓示を与えられたが、神は、私が思いあがらぬように、私の肉体に「一つのトゲ」を与えられた。「それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです」、それで、自分はこのサタンの使いから離れさせて下さるように、3度主に願ったが、主は、「私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われた。だから、「キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。…私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」と語ったのです。

  彼は、使徒である自分の唯一の印は強さでなく「弱さである」と語るのです。そして、弱さの中でキリストの力が十分に現わされるのだから、自分は喜んで弱さを誇る。弱い時に強いのであると語るのです。

  彼が、いつまでも謙った人間である為に与えられた肉体のトゲとは、恐らく決して癒されることのない病気であり、しかも人々を躓かせるような種類の病気、多分、癲癇(てんかん)であったのでないかと言われています。

  古代では、それは使徒としての弱味だったようです。なぜなら使徒だというのになぜ信仰によって癒されないのかという問いに発展したのでしょう。で、パウロは、それを解決して下さいと一心に祈ったが、ダメだった。3度とは、単に3回というのでなく、何度も執拗にという意味です。使徒の権威を失墜させるかのように祈っても無駄だった。神は沈黙したままだった。

  だがその中で示されたのは、権威を失墜させられるどころか、喜ばしい出来事でした。主は、「私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と語られたというのです。

  弱さの中で示されたこの経験が、やがてパウロの信仰の根本。神はどのように世をお救いになるのかという神の恵み理解の根本になって行ったということです。

  無論肉体のトゲが取り去られる恵みがあります。誰しも病気や災難は取り去られたい。だが、それが取り去られないことの恵みも存在するということです。マイナスがマイナスであるままでの恵みがある。キリストの力が、そこにおいて、満ち溢れさせて下さるからです。

  高名なある禅宗のお坊さんの所にある大学教授が来ました。そして禅とは何かの問答になりました。所が中々決着がつかない。やがて坊さんは教授の湯呑にお茶を注ぎ始めました。ところが、禅僧は考えごとをしているのか、お茶が湯呑から溢れているのに気付かない。教授は我慢できなくなって、「溢れています。それ以上は入りません」と言ったのです。すると禅僧は、「これと同じです」と語って、「あなたの頭は、自分の考えや思い込みでいっぱいです。あなたの頭を空っぽにしなければ、どうしてあなたに禅をお教えすることができるでしょう」と語ったというのです。(ナウエン)。

  湯呑が空っぽになる時、これまでの価値観を捨てる時、その時、弱さの中にキリストの恵みが入って来るのです。強さの中では入って行きません。だが失って初めて分かる真実がある。侮辱も、危機も、貧しさも、弱さも、キリストを受ける好機になるのです。

  震災復旧とか震災復興は確かに大事です。緊急課題です。寒さに向かう中、被災者の方々が支えられるように切に願わざるを得ません。所で、震災で被災しない者に言う資格はないかも知れませんが、弱さの中にも恵みがあふれ、そこでしか発見できない豊富な宝が必ずあるに違いないと思いますし、既にそういうものを発見している方があるかも知れません。神は不思議中で、そういう事情にもかかわらず恵みを添えて下さるからです。巨大科学技術が砕かれ、その後に思わぬ所から新しい萌芽が生まれるに違いないとも思います。

  パウロはそういう希望の萌芽を、誰しも避ける弱さの中で示され、見つけているのです。

       (つづく)

                                          2011年11月6日



                                        板橋大山教会   上垣 勝


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