鎖につながれても


                            リヨン美術館で
                               ・


                                            鎖につながれても (下)
                                            コロサイ4章14-18節


                              (3)
  さて17節には、コロサイにいるアルキポへの伝言を記しています。「アルキポに、『主に結ばれた者として委ねられた務めに意を用い、それをよく果たすように』と伝えて下さい。」彼はパウロからコロサイあるいはその地方に遣わされていたのでしょう。それで、「主に結ばれた者として委ねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と伝言を依頼した。

  パウロがコロサイ書で語って来たことは、現在のトルコの奥地リュコス渓谷の小さな、しかし地政学的に重要な拠点であるこの地に教会がしっかり根を下ろすことでした。2章6節以下で、「あなた方は、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ…」と書きました。キリストに深く根を下ろしてこそ、教会は地に根を張ることができるからです。

  パウロは、コロサイのような地域では、土地に根を下ろし、根付いていく信仰者であることが重要だと考えたのです。福音に生きる者が、社会の中、人々の中、人の心の中に深く入って信頼を得、地の塩、世の光となって行くことです。そのようにして福音が地道に伝えられていく。今日もそれは真理でしょう。

  「主に結ばれた者として委ねられた務めに意を用い、それをよく果たすように。」ここに私たちが生きる生き方の真髄、そしてキリスト者の在り方の真髄があると思います。

  サラリーマンであっても、商店主であっても、どんな職業でもいいのですが、主婦を例に取りますと、もしその方の主婦の仕事が、キリストから自分に委ねられたものと考えられるなら、その委ねられた務めに意をよく用いること。意をよく用いるとは、その仕事に大切な使命があることを発見して、心をよく働かせてその務めをすることです。「意」とは、意志であり心ですから、良い意志、善意を込めて、損得勘定なしに多少損になっても責任的に担っていく。

  パウロはその上に、「それをよく果たすように」と言っています。小事と見えても、その小事に最善を尽くす。全力を尽くして主の業に励む。そのようにして福音が根を下ろしていく。これはパウロがコリント前書15章で、「愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主に在っては、あなた方の労苦が無駄になることはないと、あなた方は知っているからです」と語ったことと重なります。

  どの福音書にも、5千人の給食の話や4千人の給食の話など、イエスの給食の話が4つの福音書に出てきます。これは単なる奇跡話ではありません。H.ナウエンという人は、イエスはここで、本当のケアをなさったと言っています。ケアとは配慮とか看護、世話と訳されます。どういう配慮、ケアかというと、イエスがなさったのはケアという言葉の根源にまでさかのぼる配慮だったというのです。

  イエスは、飼う者のない羊のような群衆を見て憐れに思い、弟子たちに彼らの手で食べ物を与えなさいと言われました。しかし食べ物を調べると、「5つのパンと2匹の魚」しかなかった。そこでイエスはそれを受け取り、祝福して配られました。すると男だけで5千人が、あるいは4千人が満腹した。残りを集めると12籠あるいは7籠に一杯になったというようなことが記されています。

  この出来事で、イエスが、非常に大勢の群衆に僅か「5つのパンと2匹の魚」の食べ物しかないのをご覧になったことが重要だというのです。イエスは彼らを外から眺めるのでなく、彼らの困難の中に深く入って行き、彼らの苦境、貧しさ、悲しみを共にされたからです。

  イエスは、奇跡を行なって救ってやるというのでなく、彼らと痛みを共にし、苦しみと悲しみを共にし、弱さを共にしながら救済されたのです。

  ナウエンは、「愛の配慮の伴わない救済の業、(治療の業、解決の業)は、冷たい心で与える贈り物のようなもので、受け取る人の尊厳を損ないます」と、書いています。そういう上から解決を押し付ける在り方は相手を傷つけかねないということです。

  今日、多くの人は専門家でありたいと願い、病人を治療し、人を教育し、困難な人を助けたいと思っています。色々な資格を持った専門家がいます。しかし、彼らは個々人の困難や悩みに深くかかわらないで、その人間にかかわらないで、専門的知識や技術を用いて救済し、治療し、解決しようとしている。専門的知識がいけないとか、不要だとか言うのではありません。それは必要ですが、それと共に温かい愛のあるケアが必要です。福祉も医療も教育も、家族へのあり方も、もし愛が消えればそのわざは空しくなるでしょう。

  イエスは、この愛の配慮、愛のケアをもって彼らの中に深く入って、救済の業をされたのです。

  看護とか世話とか訳されるケアという語は、元はゴート族の言葉で、心を痛め、悲しむという意味の「カラ」という語から来たそうです。ですから真にケアをするためには、一緒に悲しみ、一緒に心を痛め、その魂の叫びを時には絶叫を一緒に叫んで、優しく付き添う、付き合うことから本当のケアが始まるということです。

  役人根性では決してケアは出来ない。お金で解決を図ればいいというのでは決してケアにならない。しかし、イエスには涙と血、命の温かみがあって、解決もあるのです。

  いずれにせよ、「主に結ばれた者として委ねられた務めに意を用い、それをよく果たすように。」あるいは、「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主に在っては、あなた方の労苦が無駄になることはない」という言葉は大変大事な生き方の真髄を語った言葉です。

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  いよいよコロサイ書の最後の節です。パウロは、「私パウロが、自分の手で挨拶を記します。私が捕われの身であることを、心に留めて下さい。恵みがあなた方にあるように」と書いて筆を置きました。

  マラリアのために殆ど失明していた彼は、17節まで口述筆記をしていましたが、最後の18節は自ら筆を手に取って書いたのです。Aさんのように羊皮紙すれすれに顔を近づけて、自分の手で挨拶を書いたのでしょう。今後、パウロを思うたびにAさんも思い浮かべたいと思います。またAさんは、重い弱視でいらっしゃっても、パウロが仲間になってくれているとお思いになって、ますます彼を励みにして生きて行かれるといいでしょう。Aさんのみならず、ハンデを持つ人は誰でも、パウロが仲間だと思って生きて行きましょう

  パウロはかなり見え難くなっていました。それにも拘らず、福音のために投獄され、重い鎖につながれ、それでもなお福音を証しして行きました。

  彼の確信がテモテ後書に出ています。「この福音のために私は苦しみを受け、遂に犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」自分は鎖につながれても、神の言葉は繋(つな)がれていない。たとい病が私たちを圧倒しても、人間関係の鎖に重くつながれても、悪が世にたけり狂っても、神の言葉は繋がれていない。それは私たちに勇気を与え、自由と希望を与えます。神の言葉は、いかなる世の力また死の力によっても繋がれません。キリストの復活の力、死の力をも打ち砕くその力は私たちを解放し自由にします。

  彼は、「心を留めて下さい」と哀願しているのではありません。そうでなく、獄中にあるが、獄中にあっても、神の言葉は繋がれていないのです。故に、「私のことを心に留めて」、コロサイの地において、あなたがたの周りに空しい騙(だま)しごとのような哲学や考えが猛威をふるっても、「私のことを心に留めて」その地で大胆に、勇気をもってキリストを信じ、地の塩、世の光として、人々の中に深く入って根付いて生きてほしいと書いているのです。

  無論鎖につながれていることに誰かが心を留めてくれるのは嬉しいでしょう。しかし、鎖につながれても福音が進展していることに心を留めて欲しいのです。自分に目を留めることによって、そこから福音に目を留めて欲しいのです。

  哀願ではありません。そして彼は最後に、「恵みがあなた方と共にあるように」と自分のことでなく、コロサイ人のことを慮(おもんばか)って筆を置くのです。


           (完)


                                       2011年10月30日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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