光が当たると輝きだす旧約聖書


                         リヨン美術館のゴッホの作品
                               ・


                                         神との出会いの場所 (下)
                                         エゼキエル45章1-9節


                              (2)
  次に6節以下に、まことの君主の幻が出てきます。これもキリストの予型ともいうべきものです。

  まことの君主の領域は聖なる献納地、聖域と、都の所有地、俗なる世界。この2つに接しあるいはこの2つに属しているというのです。即ちまことの王は聖なる事柄に携わると共に俗なる事柄に携わる。俗なる事柄に携わる時に、聖なるものによって聖化されていなければ、その政(まつりごと)を正しく為しえない。

  だから9節でこう言われます。「主なる神はこう言われる。イスラエルの君主たちよ。もう十分だ。不法と強奪をやめよ。正義と恵みの業を行ない、我が民を追い立てることをやめよ、と主なる神は言われる。」

  長い人類の歴史を振り返ると、王制は権力の上に立って不法と強奪、私利私欲を行なう制度であったでしょう。天皇制を見ても、そこには権力欲の影がいつの時代にも見られました。むろん、平氏、源氏、足利、信長、秀吉、徳川。いずれも正義と恵みの業を行なうというような人間ではありませんでした。それはイスラエルでも同じです。

  彼らは「わが民を虐げ」てきた。で、神は、「君主たちよ、もう十分だ」と言われるというのです。「正義と恵みの業を行ない。民を追い立てることをやめよ。不法と強奪をやめよ」と言われる、というのです。まことの王は、神によって砕かれ、神に仕えるようにして民に仕える人でなければならない、と主は言われるというのです。

  ここに預言し指し示されているのは、まことの王にしてまことの僕。まことの僕にしてまことの王。やがて来るべきキリストの預言です。キリストの予型です。

                              (3)
  そのためにこそ10節で、「あなたたちは正確な天秤、正確なエファ升、正確なバト升を用いなさい」と言われているのです。エファというのは、個体を測る容量の単位です。バトというのは液体の容量を表わす単位です。天秤は重さ、重量を測るものです。即ち、正しい度量衡、正確な度量衡の制定が語られているわけです。

  どう言うことかというと、まことの王の下では、先ず何よりも偽りの量り、2種の量りでない、正しい度量衡があらゆるものの基礎になり、基準にならねばならないということです。正しい尺度、最高の規範を確定してこそ、世は正しく、安心して治められる。

  箴言に、「公正な天秤、公正な秤は主のもの」とあります。また「2種の秤の使い分けを主は憎まれる」とあります。自分には多く量り、他人には少なく量る。味方には多く量るが、敵には非常にシビアにする。そんなさじ加減をしていては、安心して暮らせません。安心、安全、信頼のない所には平和はありません。2種の秤の使い分けは、主は最も忌み嫌われるものだと言われています。企業でも儲けのために色んなごまかしをする。そんなことは主が忌み嫌われるのであって、結局大抵の不正は後からばれます。政治家もそうです。

  しかし、まことの王のまことであるゆえんは、公正かつ公平。安心、安全、信頼を築く者であるからです。そのような明朗さの中で平和が確立するでしょう。

  私たち日本基督教団信仰告白は、冒頭のところで、「聖書は正典であり、信仰と生活の規範である」と語っています。

  正典とはカノンと言います。カノンとは、まっすぐな葦の棒を指しています。古代では葦の棒が定規、物差しとして使われたからです。聖書は正典であり、信仰と生活との規範であるとは、聖書が信仰と生活との物差しであるということです。聖書の下で信仰告白キリスト教教義も、むろん教憲教規の是非も検討されなければならないということです。聖書理解が色々ある場合、それを検討することなしに教憲教規でことを決めるのは「聖書は正典であり、信仰と生活の規範である」と語っていることと矛盾します。牧師を例にとると、そういう信仰と生活のあり方は牧師として正しいのか、そうでないのか、聖書にさかのぼって聞かなければ教会が教会でなくなって行きます。

  何が教会なのか。何が教会でないのか。教会が教会であるのは自明のことではありません。「教会は何ら宗教結社ではない」のです。もし宗教結社であるなら、結社のための法、掟、教団で言えば教憲教規といったものが最高の基準になります。

  だが、教会が教会である為には、信仰の可否は聖書によってのみ決されなければならないのです。

  「教会は、人間が神に聞くというこの一事によって基礎づけられ、支えられている。この一事に置いて、教会は真に偉大であり、また真に小さいものとなる」のです。そして、「この事、人間が神に聞くという事が起こる所、そこでは、それがたとえ2、3人の集まりであっても、またこの2、3人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準に達していなくても、また、むしろ人間の屑(くず)に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」のです。ホッと安心を与えられる言葉です。

  ですから、「人間が、神が語り給う故に聞き、神の語り給うことを聞くという、この一事が、この一事のみが、教会を教会たらしめるのだという出発点に立ち返らなければならぬであろう」(バルト「啓示、教会、神学」)といわれるのです。

  今日のエゼキエルには、教会とは何かということが指し示されているのです。このように旧約聖書は、光を当てられると突然輝き出して、新約聖書の中心的なメッセージが指し示されるということがあるのです。

            (完)


                                          2011年10月23日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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