湧き水が流れでる神殿


                       リヨン美術館にあるルノワールの名画
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                                         神との出会いの場所 (上)
                                         エゼキエル45章1-9節


                               (序)
  今日は旧約聖書エゼキエル書からみ言葉を聞きましょう。預言者エゼキエルは、イエスより600年ほど前の人で、エレミヤと同時代の預言者です。彼は紀元前593年に預言者として召され、エルサレムで預言活動をしましたが、5年後には他の人たちと共にバビロニアに強制連行されて行きました。そしてその地で571年頃まで預言活動を続けたようです。

  一方、同時代に生きた預言者エレミヤは国が全く滅びるまでエルサレムで預言活動をして、その後エジプトに連れて行かれます。同じ真実な預言者でも一人は北に、もう一人は南にと、全く別の道をたどりました。ですから預言者の使命はこの道だと人間には決められず、同じ真実な預言者でありながら、具体的には全く正反対の道を辿ることさえあるということを示唆しています。

  1-33章まではエルサレムでの預言が書かれ、34章以下48章まではバビロニアで預言したものと考えられています。

  エゼキエルは幾つかの有名な幻を語った預言者です。その一つが40章以下の、今日の個所を含む、「新しい神殿の幻」です。これはエルサレム神殿が破壊されて14年後、紀元前571年に示された幻であることが40章に書かれています。

  そこを見ますと、神の手によってバビロニアからエルサレムに連れて行かれたエゼキエルは、ある高い山の頂に降ろされて、そこから新しい都、新しい神殿の姿を見せられるという幻です。

  40章から42章には、神殿の外壁、外壁に設けられた東の門、南の門、北の門などのこと。神殿の多くの小部屋や拝殿、至聖所、3階建ての回廊や別殿などが出ています。

  次の43章では、東の門から栄光に輝く主が神殿に入って来られて、神殿の中に主の栄光が満ちあふれたという幻が記されています。この東の門は普段は固く閉ざされていて、人間は誰もこの門から入ることはできない。ただ神だけがここから入られるということが述べられています。

  44章には祭司とレビ人の務めが記されると共に、聖と俗、清いものと汚れたものの区別、峻別が書かれます。こうして今日の45章につながって行きます。

                              (1)
  今日の個所では、新しいイスラエルの中心をなす聖域と聖所の幻が語られて、1節に、「あなたたちが国を嗣業として割り当てる時は、土地の一部を聖なる献げ物として主にささげなければならない。その土地は、長さ2万5千アンマ、幅2万アンマであり、この領域は周囲全体にわたって聖なるものとなる。…」と言われます。そして、この領域内に縦横5百アンマの正方形の最も聖なる聖所を設けねばならないと書かれます。

  これはどういう意味かと言いますと、イスラエルの嗣業の割り当ては、12部族それぞれに、勢力に応じてだとか、部族の人数に従ってとか、籤によってとか。先ず各部族に分割されるのでなく、先ず第一に聖域が、聖所が確保されなければならないということです。

  聖所は神と出会う場所です。神に聞く場所であり、神の顕現される空間です。これは新約聖書に対する予型とも言える象徴的な意味をもっています。また、私たち人間に対する、キリスト者に対する預言でもあるでしょう。

  どういうことかと言いますと、私たちの生活に先ず聖所、聖域、神と出会う時と場所を確保しなさいということです。生活の中心、要(かなめ)となるものを作れということです。食事したり、買い物したり、働いたり、色んな人に出会ったり、子育てしたり、眠ったり、1日は色んなことから成り立っていますが、先ず1日のどこで、神と出会う時と場所を持つか。どの場所を神との出会いの場とするのか。人生においても、いったい何のために生きるのか。家庭を持ち、子どもができ、順調に仕事をし、年を取って、去っていく。唯それだけでいいのか。なぜ生き、なぜ働くのか、その根本のことを先ず確保するべきでないかということと同じです。

  祭壇はどこ、拝殿はどこ、至聖所はどこ。そういう七面倒くさいユダヤ教的なものは不要です。聖書がある所が祭壇であり、拝殿であり、至聖所です。しかし、毎日要となる神との出会いの場、時を持って、そこから生きる。先ずそれを定めなさいとエゼキエル45章は語っていると言っていいでしょう。

  無論、神との蜜なる出会いに導かれる日があるし、気の乗らない日や気の散る日もある。聖書のみ言葉が心に入って来ない時もあるし、棒読みの時もある。そういう色々の日があることが大事です。私たちの意識や主観性を越えて、私たち人間を越えた知らない方が、私たちの只中におられることに信頼するからです。神との出会いが感じられなくても、心配は不要であって、そこに神が来て下さっているからです。

  それで、そういう習慣的な日々を送る中で、ある日突然、み言葉が全身を貫くことになるのです。またそのようにして地上に神の言葉を待つ人がいることが大事です。

  キリストの存在は、仮にその存在を全く感じなくても、私たちを見捨てることはありません。心の中に疑惑の念が起こっても、それらを全く越えて、キリストが現実存在されるという奇跡が起こっているからです。

  47章に入ると、「命の水」の幻が語られます。この聖域、神殿の敷居の下から、湧き水が流れ出て、川となり、大河となり、海に注ぎ込んでいる。この湧き水の川が海に流れ込むと、海もきれいになるというのです。先ずは実際にはそんなことはあり得ないですが、幻です。この水に触れるものは、すべてのものが生き返り、この川の流れる所には、魚が非常に多くなると言われます。原発の高レベルの汚染水とは正反対ですね。

  神殿の下から、聖なる清き湧き水が流れ出ている。これは何と意味深長なイメージでしょう。

  神との日々の出会いの場所。その敷居の下からコンコンと尽きぬ湧き水が流れ出るのだ。その水が生き物に命を与えるのだ。聖書を通して神の命に触れ、神に砕かれ、キリストの血潮によって清められ、望みを新たに得、罪赦され。その生活者の足元、敷居の下から、曰く言い難い清き水が流れ出している。新約聖書には、「あなた方は神の神殿である」と書かれています。

  私たちは肉眼で、私たちの足元から流れ出ている清き水などどこにも見ることはできない。いや、この汚れた存在のどの足元からもそんな清き水が流れ出る筈がない。それは私たちの自己理解にはないことです。だが、目に見えず、また感じもしないが、神を仰ぐ人たちの足元、敷居の下からこの清き水が流れ出ているというのです。神の不思議なお力によって…。

  だが、どんなに神について雄弁に語り、キリストについて熱心に語っても、事実的に日々神との出会いを持たず、聖書に触れず、砕かれることなく、罪赦されることを求めることなく生きているなら、この清き水は流れない。むしろいつの間にか淀んだ濁った水、自己流の臭い水が溜まっているだけになる。高濃度の汚染水のようにどこにも捨てられない水を貯め込むことになりかねない。

  いずれにせよ、先ず神との出会いの場を作りなさい。これが、ここで先ず語られていることです。

          (つづく)

                                          2011年10月23日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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