パウロと「吾(われ)ただ足るを知る」
リヨン美術館で
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ユーモアをもってベストを (上)
フィリピ4章11b-13節
(序)
きのう、今日と区民祭にあわせてバザーをしています。バザーとかバザールという言葉は、元はペルシャ語で市場を意味しています。しかし教会バザーという時には本来、慈善市という意味をもっています。今年の教会バザーは特に3つの意味でこの慈善市の意味合いが強くなっています。
先ず、品物をお出し下さった方々が慈善の意味を込めて無料で教会に提供して下さっています。しかも洋服類はほぼクリーニングをしてお出し下さっています。また、この品物を非常に安価な値段で町の人たちにお分かちするのですから、ここにも慈善の意味があります。
しかし今回のバザーの売上の多くは、大震災で被災した方々を支援するためにお送りする予定ですから、まさにこれは慈善市です。私たちは既にこんな小さな教会としては破格の支援をしましたが、それでも困難な状況に置かれている人たちを思うと不十分です。被災者を支援するために大いにバザーを致しましょう。
ただ、昨日も申しましたが、お客さんへの接客は、聖書にあるように、「穏やかに敬意をもって」という心でいたしましょう。昨日は雨模様でしたから今日はその分大勢の方が来られてごった返すでしょうから、「穏やかに敬意をもって」ということを繰り返し思い出して致しましょう。無論、私たち売り子同士がお互いに「穏やかに敬意をもって」ということでなければなりません。教会の証しとしてバザーをするわけですから、証しになるような態度でバザーに当たりましょう。
(1)
さて今日は、パウロがフィリピ教会に宛てた手紙です。詳しい前後関係は省きますが、彼はフィリピ教会から窮乏を補ってもらおうとして書いているのではないと断って、11節の「私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」という言葉を記したのです。
「置かれた境遇に満足する」という言葉に継いで彼は、「貧しく暮らすこと」や「空腹である」こと、「物に不足する」こと。「いかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」と書いています。
私はここを読むと、「吾ただ足るを知る」というお寺の蹲(つくばい)によく見かける言葉を思い出します。皆さんもそうかも知れません。だがそういうことを言っていると共に、ちょっと別のことも言っているのでないかと思って来ました。
パウロはどんな境遇にあってもそれを受け入れ、その境遇に甘んじ、そこで足ることを知ることを習い覚えた。悟った。この解釈は日本人の私たちにはよく分かります。またそういう意味も含んでいるし、その解釈は正しい面があるだろうと思います。
貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも、満腹していても、空腹であっても、有り余る物を持っていても、欠乏の中にいても、どんな状況に置かれても対処する秘訣。「足ることを知る」秘訣を心得ている。それはある意味で素晴らしいことです。
ただ、「吾ただ足るを知る」という言葉で一般的に考えられているのは、不足を我慢する受け身の在り方、消極的な生き方ですが、それがパウロの言わんとする主な趣旨であるとなると少し違う気がしてならなかったのです。
(つづく)
2011年10月16日
板橋大山教会 上垣 勝
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