人生の恥ずかしい一章
オランジュ古代劇場の上空を飛ぶ鳩の群れ
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恩寵(おんちょう) 二つ
詩編65篇2-14節
(4)
ただ、ここが大事ですが、この詩編の強調点はここにはありません。この詩編の信仰者は、意地悪で、陰湿な人ではありません。現実に生きる人間として、自分の中にうごめく罪や悪に気づいていますが、そして手痛い失敗もしていますが、彼はもっと別な、決定的な力をほめたたえるのです。それが4節後半の、「背いた私たちを、あなたは贖(あがな)って下さいます」という言葉です。私たち人間が、また神の民が与えられている希望の中心には、罪を赦す神が存在されるのです。いや罪を赦す前に、罪を贖う神がおられるのです。贖いがあって赦しが起こります。そのことを告げるためにこの詩編は書かれたのです。これがこの詩編の中心です。
贖(あがな)いということは、過去の過ちにベールをかけて覆い隠すことではありません。私たちの人生の恥ずかしい一章、恥ずかしい出来事に目をつぶり、沈黙することではありません。
贖いとは、字源的には、「高い金銭を払って買い取る」ことで、辞書には、「罪などの代わりをすること。またその代わりとなる者。償い」とあります。これは聖書の根本思想です。
旧約には「全き燔祭(はんさい)」という儀式がありました。これは人が牛や羊などの頭に手を置き、動物に彼の罪をすっかり委ね、委ねられた動物が身代わりにその人の罪を負って殺され、火で焼かれる儀式です。
贖いというのは、罪を隠すことではありません。贖いには身代わりするものがいて、罪を取り除くために代わりに断たれるのです。それが贖いであり、その結果が赦しです。罪の赦しには、高価な犠牲、償いがある。
ローマ書3章はこうありました。私たちは罪を犯して、神の栄光を受けられなくなっている。すべてが罪の下にある者だ。だが、キリストは不信心な者のために死んで下さった。ただキリストの贖いの業を通して、神の恩寵、恵みにより、私たちは無償で義とされるのである。それはキリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義である。
私たちの罪が贖われるのは、キリストが私たちの罪を負って十字架で屠(ほふ)られたからです。私たちの罪がキリストに移され、キリストの命が私たちの方に移された。
罪の赦しは、罪が水に流されたり、隠されることでなく、キリストが裁かれることにおいて私の罪の裁きが行なわれたのです。私の罪の結果はキリストが裁かれた姿を見れば明瞭です。私が赦され、キリストが神に砕かれたのです。
この方により、「罪の数々が私を圧倒しても、あなたは背いた私たちを贖ってくださる」ということが起こったのです。ですから65編はイエスの預言をし、暗示をしていると言っていいでしょう。
そのようなことをして下さるのは、神の愛だけです。神の愛は、たとえ罪が私たちにおいて溢(あふ)れ返り、暴れまくっても、私たちを新しく創り変えることをやめないでしょう。私たちに味方し、私たちを救おうと、独り子をさえ惜しまず十字架につけてくださるでしょう。
まるで、大自然の中で示される神の恩寵が誰に対しても公平であるように、神の贖いの恵みも私たちに公平に来て下さいます。自然の中で、畝(うね)を耕し、土をならし、豊かな雨を注いで柔らかにし、芽生えたものを祝福して新しいものを造り出して下さるのと同じように、確かに私たちを祝福するためにキリストは来て下さったのです。
(完)
2011年10月9日
板橋大山教会 上垣 勝
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