素敵なお茶友だち
プロバンスの田舎町、オランジュの民家
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恩寵(おんちょう) 二つ
詩編65篇2-14節
(1)
…さて、本題に入りますが、大自然における神の恵みは、6節以下で次のように歌われていました。「あなたの恐るべき御業が、私たちへのふさわしい答えでありますように。遠い海、地の果てに至るまで、全てのものがあなたに依り頼みます。御力をもって山々を固く据え、雄々しさを身に帯びておられる方。大海のどよめき、波のどよめき、諸国の民の騒ぎを鎮める方…。朝と夕べの出で立つところには、喜びの歌が響きます。」朝夕の始まり、暁の素晴らしさと日没の素晴らしさへの喜びも記されています。
大津波が東北を襲って、その恐怖が7カ月たった今も取れない人たちが多くいらっしゃるそうですが、大水のどよめき、大海のどよめき、波のどよめき、その悪夢から1日も早く回復され、彼らの心に平和が戻って来ることを願わずにおれません。
そのような中でも、この信仰者は、神は、人間を脅かすあらゆるもの、あらゆるどよめき騒ぎを鎮め、沈黙させ、平和を回復させて下さる方だと述べるのです。
世界経済の不安が広がっています。ヨーロッパだけでなくアメリカにもデモが広がり、世界が日増しに騒々しくなっていますが、経済の悪化が沈静化し、諸国の民の騒ぎが平和の内に鎮められることは世界の人々の心からの願いです。
この詩編によれば、それらのどよめきや騒ぎも、歴史を支配される神が必ず鎮めて下さると確信していると言っていいでしょう。
(2)
次にこの詩篇は、4節で、「罪の数々が私を圧倒しますが、背いた私たちをあなたは贖って下さいます」と語って、神による罪の贖い、罪の赦しが高らかに歌われ、神は私たちの良心の呵責を鎮める力を持っておられると語ります。
先程、収穫感謝祭に触れましたが、2節に、「沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます」とあります。満願の献げ物とは、願いがすべて叶えられた時に、私はこれを献げますと誓ったその誓いを、割引かず満願でお献げしますということです。
この2節は、3、4節と繋がっています。私たちの聖書は、「祈りを聞いて下さる神よ。すべて肉なる者はあなたのもとに来ます。罪の数々が私を圧倒します。…」となっていますが、3節は4節と続かせて、「罪の数々のものを持って、全ての人があなたのもとに来ます。その罪をあなたは贖って下さいます」と訳す英語訳があります。
どういうことかというと、私たちの訳では、満願の献げ物をささげて感謝するのは、罪を贖って下さる神の恩寵と、6節以下の大自然を通して表わされる神の恩寵、この2つの恵みに対して、満願のささげものをしますと歌うのです。
それに対して紹介した英語訳では、満願の献げ物をするのは、すべての人間は罪の数々のものを持ってあなたの所に行く。なぜなら、罪は溢れかえり、私たちの中で暴れまくっていますが、それらをすっかり拭い去って下さるからですという意味になります。
私は、私たちの罪の現実をリアルにとらえる英語訳の方がいいのでないかと思います。
今、私が言いたいのは、この詩篇は、大自然における神の恩寵も歌いますが、実に脆く、壊れやすく、自分が仕出かした悪や罪の結果によって手痛く懲らしめられる人間を、神はどのように迎えて下さるか、キリストによる神の恩寵がここに語られているということです。
私たち、肉なる者すべてが神のもとに行くのは、神が一人ひとりを受け留めて下さるからです。一人ひとり、状況も問題も違いますから、一人ひとりへの手当ても違います。そして何よりも私たちの問題というのは、私たちの罪の問題です。これは誰彼なく言うことができない最も由々しい、内面的な、恥部の問題です。だがそれを受け留めて下さるから、肉なる者はすべて神のもとに行きますというのです。
(3)
今日の詩編の中心に来ました。4節は、「罪の数々が私を圧倒します」と語り、しかし「背いた私たちをあなたは贖って下さいます」と述べています。ここでは、数々の罪が圧倒するとありますが、現実には、複数でなく、ただ1つの罪でも圧倒されることがあります。それが罪の持つ鋭さであり、私たちを死に至らせる力です。
ここには若い方はそれほど多くありません。若い方と言っても幅は広く、10代から50代程の方々までを含めたいと思います。男性も、女性もですが、むろんキリストは私たちの傍らにおられ、私たちの中にもおられますが、同時にサタンは私たちの心のスキを狙っていると申し上げたいのです。ですから心にスキがないように用心が大切です。
私たちの教会目標の1つは、ホッとできる教会であることですが、それとはちょっと違いますが、ホッとした時にサタンの手が伸びやすい。あんな人がと思うような人が、サタンの手に落ちる場合があるのは本当に不思議です。具体的な言い方を避けて、抽象的にお話しています。
詩篇50篇以降60篇までにダビデの詩が集中しています。今日の詩篇は1節で、「ダビデの詩」と記されています。ですが、彼が、「罪の数々が私を圧倒します」と告白しているものの、それは具体的に何を指しているかはっきりしません。
彼はペリシテ軍との戦いのさ中、何かホッとした瞬間に、バテシバ事件を起こしました。そして発覚を恐れて夫ウリアを部下に殺させ、罪に罪を重ねて罪を犯していきます。この数々の罪を指しているのでしょうか。
ダビデは男性ですが、現代は、男性も女性もあまり差がないかも知れません。世には言葉巧みな、実に巧みな人間がいます。それで、家庭持ちで、こんな人がと思える人が、最初はおずおずとでしょうが、一度燃え上がると、恐れがなくなり、大胆にも、盲目になって突き進んでいく場合があります。最初はそんな相手だと分かりません。爽やかなお茶友だちなら素敵だと思います。ほのかな恋愛感情の芽生えはホルモンの分泌を活発にするとも…。だが、ある時、何事かが起こってハッと気づくのです。だが、もう火の手が上がっています。ダビデもそうでした。
人には好奇心があります。現代は情報があふれ、刺激が強い世界ですから、自分も少しは火遊びをしたいという心は誰しも持っているかも知れません。いや、持っているでしょう。もちろん普通の恋愛はいいでしょう。羨ましいようないい恋愛をしてください。
しかし火遊びは必ず自分を苦しめ、家族も子どもも犠牲になります。最悪の場合は家庭の破たんや自殺が起こります。そういうことが、私たちの身近な所で起こらないとも限りません。私はかなり抽象的にお話ししていますが、教会の皆様に、そういう酷いヤケドをして頂きたくないと思って、敢えて申し上げました。
今、不倫で大変なことになった場合を申しましたが、罪の数々は男女関係だけでなく金銭のごまかし、詐欺、また憎しみや敵意も同様な魔力を持っています。
「罪の数々が圧倒します」とあるのは本当だと思います。罪が私たちを圧倒し、全く覆(おお)ってしまいそうになる場合があるのです。
(つづく)
2011年10月9日
板橋大山教会 上垣 勝
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