100歳の日野原重明さんも同じことを説く


  世界遺産を2つ持つ町オランジュのバザールはプロバンス地方一体を巡回するバザールです。
    おじさんが作った自家製のオリーブは絶品でした。思わずフランス人のお客さんに勧めました。
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                                         家の教会の人たちに (下)
                                         コロサイ4章12-18節


                              (4)
  エパフラスが郷里伝道をするにあたって重視したのは、恐らく12節にある3つのキーワードでしょう。1つは「完全な者となる」ということ、第2は「神の御心を確信している」こと、第3は「祈り」です。

  「完全な者」となるというのは、内容的には「完全な者を目指す」という事です。「成熟を目指す」と読み替える人たちもあります。私たちは不完全な者だが、完全を目指そうと言うことです。完全を目指そうと言うことは、背伸びをするという意味でなく、停滞した信仰者でなく、いつも前進するキリスト者であろうとすることです。求道的なキリスト者であろうと言うことでしょう。

  日野原重明さんが今週の10月4日に満百歳を迎えられるというので、新刊書が出されたり、テレビで放映の予告をされたりと新聞広告が出ています。あの方が説いているのも、いつまでも前進的な、前向きな老人ということだと思います。あの方のは、元は、今もですが、キリスト教信仰に基づく前進的な歩みです。

  完全を目指すことは、背伸びした揚句に、そこまで達していないのに、完全な者を装うというのではありません。それは全くおかしい。そういう「振り」をすることを言うのではありません。

  キリストはアルファであり、オメガであると黙示録にあります。きのうも今日もまた明日も進んで行かれるキリストが、言わば人生の崖、足場が悪く踏み外しそうになる困難な道も、先頭に立って導いて下さる。私たちはその足跡をたどる。キリストの踏まれた足跡を踏んで行けば転びそうな道も進むことができる。キリストは危険に遭われ、十字架の苦難に遭われたが、それでもアルファ、先頭に立って進んで下さるのです。しかもキリストは私たちの最後尾、オメガ、しんがりになって、誰も落伍することなく進めるようにゆっくり共に歩いて下さる。

  だから歩みはのろくても、キリストにあっては誰もが前向きであることができます。

  先程、ここを「成熟した者となる」と言い換える人もあると申しました。成熟です。エパフラスの愛はこの成熟から出ていました。そして、この成熟は、どこから来るかというと、2章6節の、「キリストに結ばれて歩む」、あるいは、「キリストに根を下ろして造り上げられる」という所からです。

  キリストという確かなものに根を下ろさないと、3章に書かれていますが、人に対して軽蔑的になったり、侮蔑的になったり、侮ったり、少々のことで喰って掛かったりしてしまうのです。即ち、キリスト者と称しながら地上的、肉的に生きてしまう。新しい人を身につけるべきなのに、古いままで生きてしまう。これは恐ろしい事です。

  だがキリストに留まり、根を下ろすと、キリストの平和が私たちの心を支配します。すると、互いに忍び合い、責めるべきことがあっても赦し合うように導かれる。主が赦して下さっているのですから、相手を赦そうということに導かれる。「愛を身につけなさい。愛はすべてを完成させる絆です」とありますが、そういう真実なものを慕い求めることになります。

  先程の婦人が愛情の深い人であるのは、このようにキリストに根を下ろしておられるからです。キリストの平和が心を支配するようにしておられるからだと思います。

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  最後に、回章(かいしょう)について触れます。回章とは回し文(ぶみ)です。15、16節でパウロは、「この手紙があなた方の所で読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らって下さい。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなた方も読んで下さい」といっています。

  コロサイ書はティキコたちの手でコロサイに届けられようとしている。それをラオディキアの教会にも回覧して下さるように言うわけです。また、ラオディキアから回って来るものを、あなた方も読んでください。回覧して下さい。これが回章の手紙です。多分、パウロがラオディキア教会に書いた手紙があったのでしょう。しかし、現在は紛失してありません。もしあれば大発見です。この両教会のことが更に分かって非常に興味深いですが、残念なことにございません。

  いずれにせよ、古代の教会は同地域にある複数の教会が互いに支え合っていくことに心を尽くしました。同地域でライバルだと言うのでなく、地域教会が連帯する。エパフラスがこれらを伝道し、パウロがエパフラスの師ですからそれが可能だったともいえますが、特にキリスト者は少数者ですから連帯は不可欠であったのです。

  連帯。それは、エパフラスが、「いつもあなた方のために熱心に祈っています」とあるように、祈りにおいてこそ連帯していました。

  私たちの信仰は孤立してあるのではありません。私たちの信仰は信仰共同体・教会に根を下ろしています。そして個々の教会は、世界を包む大きなキリストの体の一部分であります。私たち個々の信仰者は、この大きなキリストの体と、具体的な信仰共同体・具体的な教会に属して、その祈りに支えられて歩むことが大事です。

  信仰者であるとは、どこかの教会に具体的に属し、身を置くことです。その時、その教会の祈りを背後に受けながら生き、同時にその教会につながる人たちのため自分も祈るという、更に意味ある連帯の生活が生まれます。一つの教会の一員になるとは、エパフラスがしたように、その教会の他の人たちのことを心に掛けて祈るという素晴らしい使命を与えられることです。

  他の人のために祈ることなしに、自分の信仰の深まりもありません。連帯して信仰生活は進んで行くのです。

  以上で今日は終わりますが、14節の医者ルカとデマスのことまた17節のアルキポのこと、そして最後のパウロの挨拶は次回に触れてコロサイ書の学びを終わりたいと思います。

           (完)


                                        2011年10月2日


                                         板橋大山教会   上垣 勝


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