牛の目から見た原発事故


                            リヨン美術館で
                               ・

                                         未練がましくあらず (上)
                                         申命記15章7-11節


                              (序)
  今日は古代イスラエルの人たちが持っていた戒めから、学びたいと思います。現代社会に直接当て嵌めることはできませんが、何か示唆を与えられ、ものの見方や生き方を深められれば幸いだと思います。

                              (1)
  ここにあるのは、紀元前1200年頃、今から約3200年前の古代イスラエルの掟です。当時のイスラエルでは、神との関係は具体的に国民の互いの連帯関係の中で生きられ、現実化されていました。信仰は信仰、現実は現実と2つに分けられることはなかったようです。

  今日の個所はこのことをよく表わしていますし、少し前の申命記7章を見ると、神の愛の深さ。その心はどんなに広く、どれほど慈しみに満ちたお方であるかが明らかにされています。

  こうあります。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。…主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが、他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力あるみ手を持ってあなたたちを導きだし、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」神はイスラエルを宝物のように愛し、宝の民とされた。優れていたからでも、強大であったからでもなく、どの民よりも貧弱であったが、神の一方的な愛のゆえに選ばれたのだということです。イスラエルの60万の一行がシナイ山のふもとにたどり着いた時、神がモーセを通して語られたという言葉です。

  この慈愛に満ちた神のゆえに、今日の個所にあるように、「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心を頑なにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。…与える時、心に未練があってはならない」と教えられているのです。

  貧しい人に対し、自分の兄弟姉妹に対するように、惜しみなく貸し与えよと言うのです。「どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるなら」という言葉に、貧しい一人の民も軽んじない、強い連帯感が滲んでいます。一匹の迷い出た羊を捜し歩く羊飼いのように、危険を冒し、自ら傷ついても、羊に責任を持つ羊飼いの姿です。

  ここには気前良さ、寛大さを表わす言葉が幾度も繰り返され、最後に「心に未練があってはならない」と締めくくられています。単なる連帯ではありません。一人ひとりがこれ程大事にされるのは、神が一人ひとりを大事にされるからです。

  中国は今も大家族主義です。ですから四川大地震の復興のために、近隣の都市が資金を出して助けたそうです。しかしここにあるのは愛による連帯です。神にまでさかのぼる愛の連帯です。

  主は偏り見ない愛の神であるから、あなた方も孤児や寡婦の権利を守り、寄留者を助けなければならないのです。小さい者や、弱く低くされた者に対する憐れみの手を引っ込めてはならないのです。

  これは本来的にイスラエル律法を貫く平等主義、公平主義でした。私たちは先ずこのことに心を強く留めなければならないでしょう。

                              (2)
  さて、モーセ十戒には安息日の掟があります。6日間働いて自分の仕事をし、7日目は主の安息であるから、いかなる仕事もしてはならないという定めです。民は全員、息子も娘も、男女の奴隷も、牛、ロバ、全ての家畜に至るまで、また町に寄留する外国人たちも同様に休まなければならないという規定です。

  それと類似していますが、畑の作物は、7年目には刈り取ってはならない。7年目は休閑地として大地を休ませ、畑に安息を与えなければならないというものです。畑の安息年ともいうべき、大地や自然に対する大変思いやりのある掟です。この背後には、あらゆる被造物は皆、神のものであるという信仰があります。そして大地も畑も真の所有者は人間でなく、主のものであるという信仰、思想です。

  7年目に畑に安息を与えるのは、人の生存の根本をイスラエルの人々に思い起こさせるためでした

  日本には十戒に当たるものはありません。絶対的な尺度が存在しません。ですから金儲け、出世、有名になることなどが人生の尺度になっています。尺度の幅が狭い、自分中心です。先週の祈祷会では、大きな測りと小さな測りということが出ました。神の真理という大きな測りでなく、自分本位の利己的な測りは視野が狭く小さいということが話されました。それが砕かれて、神の大きな測りに作り変えられなければならないということでした。

  聖書では神が尺度、絶対的尺度です。ですから先ほど申し上げた、イスラエルの民だけでなく、奴隷も、牛、ロバ、全ての家畜に至るまで、また寄留する外国人も差別なく安息を与えられるという規定が生まれましたし、孤児や寡婦の人権を守ろうとする掟が生まれました。

  原発で大地が汚染させられました。田畑の作物も、果樹も、牛も馬も、川も山も海も汚染され、人々は恐れて避難しました。福島の3割の人は出来るなら県外に住みたいと考えているそうです。「死の町」と化したという大臣の発言が物議を醸しています。県全体でなく、原発の周辺の町はまさに死の灰によって死の町になったに違いありません。

  私たち人間は、人と食べ物の汚染という観点で議論していますが、もっと根本的には、神のものを人が汚染したということです。大地と神への罪です。その観点が原発事故で欠落しています。誰もそのことを指摘しません。皆、どっちみち時が経てばどうにかなるさと思っている。そこに日本人の甘さ、罪の深さがある気がします。

  これは大地と神に対する罪です。そのことに気付き、それを懺悔しなければ、これ迄と違った新しいあり方は生まれないのでないでしょうか。ドイツで2022年までに脱原発を行うという決議がなされました。そういう新しいことは懺悔なしには起りません。

  一週前の新聞に、福島原発のおひざ元の浪江町で、事故後に放たれた牛たちが野生化して、1mほどの草が伸び放題になっている学校の校庭を疾走して駆け抜ける写真が載っていました。住民が防護服に身を固めて一時帰宅を許され、新聞記者も同行して写したようです。

  人間は殆ど持ち物も持ち出せず、一目散に避難しました。だがそこに残され、解き放たれた牛たちは今、走り回っているということです。皮肉なことに、人の姿を見ると、怪訝な顔で立ち止まって暫らくじっと見ていたが、すぐもの陰に隠れ、またすぐそこから飛び出して、草原のようになった運動場を一気に疾走して林の中に姿を消してしまったというのです。

  彼らはこれまで人間に飼われ、生後何年かで肉牛になりました。だが、今は原発汚染と引き換えに一部の牛が解き放たれ、人が帰って来なければ今後何十年か、天寿を全うするまで生きることができるということでしょう。神の大地が汚染されることによって、神は獣たちを解放されたということでしょうか。事故が起こらなければ人の手から逃げられなかった。私は牛の肩を持って贔屓(ひいき)しているような口ぶりですが、これは何か非常に深いものを暗示していると思います。牛の目から見ると、原発事故は更に深い現代文明の真相が暴露されていると言えるに違いありません。

         (つづく)

                                        2011年9月11日

                                         板橋大山教会   上垣 勝


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