慰めとなる人


                         リヨン美術館の階段のレリーフ
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                                           慰めとなる人 (下)
                                           コロサイ4章10-11節


                              (3)
  パウロはこれら3人を紹介して、「割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、私にとって慰めとなった人です」と語りました。

  「慰め」。英語ではコンフォートと言いますが、これは元は、どこから攻められても決して陥落しない、堅固な要塞、砦を指します。従って、そういう確かさをもって人を慰めることです。英語訳では、「大きな慰め」となっています。

  幼児を見ていると、ヨチヨチ歩いてお母さんにまつわりついていますが、お母さんが暫らくそこにじっとしていると、チョッと離れて、他の子のそばに行ったりします。暫らく一緒に遊んでいて何か取り合いになって泣かされると、すぐお母さんの所に戻って、抱っこされて、気持ちが落ち着くまで指しゃぶりなどしてじっとしています。でも落ち着くと、また出かけたりします。

  幼児にとって、お母さんは砦みたいなものでしょう。確かな要塞です。嵐が来ると母港に逃げ帰り、静まると出航します。今回の台風でそういう光景もありました。慰めとあるのは、基本的にはそういうことです。

  「大いなる慰め」です。パウロは、彼らによって思い煩うことから解かれることも、自分の過ちを委ねうる方があるのを示されて慰められることもあったでしょう。また、例えばイザヤ書53章から、「主には見るべき姿も輝かしい風格もなかったのではないでしょうか。好ましい容姿もありませんでした。人々から軽蔑され、見捨てられたが、私たちの罪を担って裁きを受け、御自分を献げものとなさったのではないでしょうか」などと、彼らから苦難の僕の歌を聞かされて、「大いなる慰め」を得たこともあったでしょう。

  彼ら3人はパウロと同じユダヤキリスト者ですが、ユダヤ人のためでなく、狭い門を選んで外国人のために共に身を粉にして働く男たちです。彼らは古い人を脱ぎ捨て、キリストにある新しい人を身につけて、国も民族も越え、奴隷や自由人という区別も越えて、キリストにある真の知識をもって外国人宣教師として固く協力し働いている。そこに大きな慰めがあったに違いありません。ユダヤキリスト者の中にはパウロの伝道を妨害する者もありましたから、この3人は得難い同労者でした。彼らにとっては、「キリストがすべてであり、全てのもののうちにおられる」ということは自明なことです。

  伝道のさ中に何か不利なことが起きると、身を翻してパウロを捨てていく者もありました。外国人による難もありましたが、同胞からの難、偽兄弟の難に遭うこともあったと彼は書いています。そうした中で、「この三人だけが共に割礼を受けた者」として、固く結び合っている。このことは何ものにも代えがたい喜びであったに違いありません。共通の困難が一層彼らを固く結びつけたことでしょう。

  箴言17章に、「どのような時にも友を愛すれば、苦難の時の兄弟が生まれる」とある通りです。真の友はそういう時に生まれます。だが、彼らはいつも同意見であったとは思われません。やはり箴言27章に、「鉄は鉄をもって研ぐ。人はその友によって研がれる」とありますが、互いに研磨されることによって更に友情が深まり、そういう友の思いやりの言葉は「大きな慰め」となるでしょう。

  先週、用があって九州に行き、博多に長年住んでおられる教会員のAさんを訪ねることができました。長く英語ガイドをしていい働きをして来られた方です。夫人と共にキリスト者ですが、Aさんは日本基督教団の教会に通い、奥様は無教会の集会に行っておられます。教会は違いますが仲の良いご夫婦でした。短い訪問時間に色々話が出ましたが、一番印象に残ったのは、Aさんが出席しているS教会の牧師さんは、一旦牧師になったが感ずるところがあり、牧師を辞めて十数年一信徒としてその教会に出席し、前任牧師が亡くなると、皆に推挙されて再び牧師になられた方だそうです。色々の牧師たちがあります。そういう多様な牧師があって素晴らしいと思います。

  60歳だそうですが、腎不全で週に何回か透析を受ける暮らしだそうです。それで毎週、死に向き合った説教をされるということで、毎週、「皆さん、死の覚悟はできていますか」と問われるそうです。「皆さんは、死の覚悟はできておられますか?」若いからといって死はずっと先だとは限りません。明日かも知れない。ですから、若い人も死の覚悟はできているかどうかは大切です。

  この方は大したものだと思います。実に真剣なのでしょう。一週一週、一刻一刻、真剣に生きてみ言葉に仕えておられるお姿を想像します。その真剣さが教会に来られる人々を慰めている。年齢は上でも、私など及ばないと思います。

  私たちはいかなる十字架を負い、どんな環境に置かれていても、人を慰め、励ますことができるということでしょう。置かれた所を嫌だ、嫌いだ、不幸だと言って嘆かず、そこで主を賛美し、主を喜び、生かされていることを感謝して生きる。その時、「あなたの立っている地は聖なる地である」ということになるということです。讃美歌に8歳で亡くなった女の子が書いた詩があります。私たちの教会でも歌いますが、小学2年生でも多くの人を慰める力を持ちます。

  パウロは、この3人のユダヤキリスト者によって大きな慰めを与えられました。無論パウロは、それ以上に彼らには大いなる慰めとなっていたに違いありません。

  「神よ。私に、慰められるよりも慰める事を。理解されるよりも理解することを。愛されるよりも、愛する事を、望ませて下さい…」と、聖フランシスは祈りました。

  慰めとなる人。今の時代ほど、安心して何事も話せ、慰めとなる人を求めている時代はないと思います。そうした中で、「慰められるよりも慰める事を。理解されるよりも理解することを。愛されるよりも、愛する事を、望ませて下さい」と、私たちも祈って行きましょう。

           (完)

                                        2011年9月4日


                                         板橋大山教会   上垣 勝


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