ここは聖なる地です


                            リヨン美術館で
                               ・

                                           慰めとなる人 (上)
                                           コロサイ4章10-11節


                              (1)
  パウロは7節以下で、ティキコとオネシモを紹介した後、今日の所でアリスタルコ、マルコ、ユストの3人の挨拶をコロサイ教会に届けています。この3人は、「割礼を受けた者」、即ちパウロ同様ユダヤ人でキリスト者になった人たちでした。

  先ず、アリスタルコは、テサロニケ生まれのマケドニア人です。民族としてはユダヤ人ですが、ギリシャマケドニア地方の首都に住んで、ヨーロッパ系の文明の中で生活していた人です。彼は、パウロの第2回伝道旅行の途中で加わり、以降、終始同行した人物でした。ですからパウロとは長年同じ釜の飯を喰らって、肝胆相照らすところがあったでしょう。

  「同じ釜の飯を喰らって」と申しましたが、10節にあるように、今、彼はパウロと「一緒に捕われの身となって」いましたから、獄中でも実際に同じ臭い飯を喰っていた訳です。かつて12弟子たちは、イエスが逮捕されると命からがら見捨てて逃げましたが、それから数十年が経ち、イエス・キリストの十字架と復活はなぜであったか、その深い意味が次第に明らかになって行き、教会の基礎も固まってまいりますと、弟子たちは迫害もものとせず、福音のために獄中に入るという自覚を持ち、勇気をもって進むまでになっていました。

  「私と一緒に捕われの身となって」いるという言葉に、彼のアリスタルコとの一体感、同志としての誇りが窺えないでしょうか。パウロアリスタルコの人物に心強さを感じていたでしょう。

  パウロが気を使ったのは、自分の投獄によって、キリストを信じれば投獄される。危険思想だという風評を立てられることだったでしょうか。昔なら、キリスト教徒は集まって肉を食っているとか、血を飲んでいるとか風評も立てられました。つい最近まで、日本でも地方では、学校の先生が、そういう風評を意図的かどうか知りませんが、子どもたちに植え付ける場合がありました。

  原発風評被害と違い、こういう風評はこちらが乗り越えていかねばなりません。パウロは牢屋に何度も入りながら、「キリストは全ての支配、権威の頭です」と堂々と述べました。既にこの世の支配も権威も、主の前には何ものでもないという雄々しい信仰です。

  パウロは正義感に燃えて、かつてはキリスト教徒を迫害しました。そこには彼の野心も混ざっていたでしょう。だが、ダマスコ途上で復活のイエスに出会います。天からの光が彼の周りをめぐり照らした。彼は地に倒れ、目が見えなくなり、復活のイエスの声を聞きました。私の想像では、その時、彼もモーセのように、「あなたの立っている地は聖なる地である。あなたの履いている靴を脱ぎなさい」というような信仰の根本的な経験をして行ったと思います。

  彼はキリストを信じ、キリストのために幾度も獄中生活を経験しますが、彼にとっては、獄中もまたキリストがおられる聖なる地となって行きました。昼夜、いかなる所に置かれても、そこは聖なる地であるという確信が生まれて行ったと思います。

  第2コリント6章で、「今や、恵の時、今こそ、救いの日」と彼の口を突いて出た言葉は、彼のこの確信から来ています。今いるこの場所、今のこの時点、ここにキリストがおられる。ここは聖なる地だという告白です。

  戦後間もなくある牧師は、キリスト教に出会って牧師になる決心をしました。青年時代です。だが、牧師になる前に、日本の精神風土を知らなくてはならないと考えて、駒澤大学に入学して仏教を学びました。あそこは曹洞宗の大学ですが、遠回りした訳です。

  ところが、キリスト教徒で曹洞宗の仏教学科に入ったというので珍しがられて、この方が通う教会に毎週何人かの坊さんの卵たち、また尼僧の卵の人たちが来るようになったそうです。その卵たちはその後どうなったか知りませんが、やがてこの方は最優秀で卒業することになり、キリスト者が仏教学科の卒業生総代になるというので異議を唱える教授たちも出たそうです。

  「あなたの立っている地は聖なる地である。」これはいかなる時代、いかなる場所でも通用します。「キリストはすべての支配や権威の頭」です。恐れる必要はないのです。パウロはそういう信仰をもって、これまで誰も歩いたことのない未踏の領域に入って行きました。それが3回にわたる大伝道旅行です。

  そしてアリスタルコも、パウロと同じ思いを持って捕われの身になっていたでしょう。

                              (2)
  パウロは次に、バルナバのいとこマルコからもよろしくと言っていると述べています。

  マルコは地中海のキュプロス島出身で、青年時代からいとこのバルナバパウロまたペトロなど、主の弟子たちの間で過ごして来た人です。ですからキリスト教がどのようにして生まれ、多くの血が流されてどう成長して来たか。それを使徒たちからじかに聞き、つぶさに見て来た、キリスト教の第2世代の得難い一人でした。彼はヨハネ・マルコと呼ばれる人物で、恐らくマルコによる福音書を書いたのでないかと言われています。

  マルコ福音書は、大変簡潔な書き方をして僅か16章しかありません。その大半はイエスの受難の記事に充てられています。それは彼が、弟子たちの迫害、殉教を目にして、十字架に向かうイエスの苦難の出来事を集中して記すことによって苦難の中にある第2世代のキリスト者たちを励まそうとしたのではないかと思われます。

  彼は一度パウロにきつく叱られ、パウロから遠ざかることがありました。しかし、後にパウロを慕いパウロにつき従って伝道した好青年です。

  パウロは今日の個所で、「このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなた方は受けている筈です」と述べています。彼は、思想的な誘惑にあっているコロサイ教会の動向に関心を払い、その助け手になろうと準備していたのでしょう。無論パウロも彼を推して、彼の旅に期待を寄せていた筈です。

  最後に「ユスト」です。彼は、「ユストと呼ばれるイエス」と紹介されています。西暦1世紀のイエスの時代には、各地にイエスと呼ばれる人物が沢山いたようです。偽イエスじゃあありません。ナザレのイエス、キリストと言われるイエスは唯お一人ですが、例えば、騒動の罪で捕まり、イエス・キリストと引き換えに釈放されたバラバは、バラバ・イエスという名でした。また、聖書外典にベンシラの知恵という書がありますが、その著者は自分をベンシラのイエスと名乗っています。

  要するにイエスという名は当時、ありふれた名前であったということです。ただユストは、ここだけに出て来て、どんな人か全く不明です。ですが、彼もパウロにとって「慰めとなった人」というのですから、詳細は分からずとも大切な働きをしたに違いありません。「その時、歴史が動いた」、何ていう番組がありましたが、そういう大物好みでなく、歴史の中には隠れた大切な働きをして来た人たちがあちこちにいた筈で、それが大事です。

        (つづく)

                                         2011年9月4日


                                         板橋大山教会   上垣 勝


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