希望に変わる君の苦しみ


                            リヨン美術館で
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                                         希望に変わる君の苦しみ (下)
                                         ヨハネ16章16-24節

                              (3)
  20節に、弟子たちが悲しみ泣くのを、この世は見て喜ぶとありますが、ローマ帝国によって殉教の死を遂げたキリスト者たちを見て、歓喜して喜び迎えた人たちの姿がここに書き込まれているに違いありません。そのような時には、どうすればいいのでしょうか。どのように希望を回復すればいいのでしょうか。

  イエスは、弟子たちがこれまでとは違った仕方で事柄を見るようにと勧められました。悲しみや嘆きが私たちの目を被うと、真実を歪めて見てしまいがちです。悲しみが私たちを襲うと、自分の中に逃げ込んで心を閉ざしたり、何がそこで実際に起こっているか見えなくさせてしまいがちです。悲しみや嘆きは落胆へと導き、落胆は大変手ごわい敵です。主の祈りで、「試みに遭わせず、悪から私たちを救い出し給え、悪しきものから救い出し給え」と祈っているのは、このことです。敵は、私たちの内面に巣食い、内側からダメにして行きます。外面の敵より、内面に巣食った敵の方が強敵です。

  イエスはそこで、「私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない」とおっしゃいました。イエスは死んだ後、3日目に復活してあなた方と会う。たとえ苦難や死が現実であっても、それが私たちの運命を決定する最後的な言葉ではないという意味です。死が最後でなく、復活が、神が下される最後決定的な決定であり、それは誰も奪い取ることが出来ない喜びである。神の授けられるこの永遠の喜びを、どんな被造物も私たちから奪い取ることはできないということです。これはローマ書8章31節以降でも語られていることです。

  私たちは誰も完全な者ではありません。むしろイエス様は、「心の貧しい者は幸いである」とおっしゃっておられます。私たちはキリストにあって貧しい者であっていいのです。キリスト者であることは、他よりも優れた者であることを意味しません。そういうことを神は求められない。むしろ心の貧しい一人を自覚していることが大事です。

  イエスは、神が授けられる喜びを誰も奪い取ることはできないことを明らかにするために、一つの譬えを語られました。それは赤ちゃんを出産しようとしている若い妊婦の譬えです。イエスはこの場合も、誰もが理解でき、どこでも普遍的に経験されるものを譬えにされています。

  出産において、妊婦は陣痛が起こると痛みを避けることはできないでしょう。古代のことですから、今日の比ではなかったでしょう。イエスは、陣痛の痛みで泣き叫ぶ婦人たちの声を何度も聞かれたことがあったに違いありません。ともかく、陣痛の痛みは古代では不可避でした。特に初めてのお産は恐怖すら混じったでしょう。しかし妊婦は、やがて訪れる喜びを経験するために、陣痛を通過しなければならないのです。それを避けては喜びはない訳です。むろん、痛みの経験が目的ではありません。痛みの先に喜びを見るためです。喜びがあるからです。

  それと同じように、十字架の苦しみを喜びへと変えるのが復活です。苦しみが喜びに変わるのです。十字架が復活の光に照らされ、神の光に照らされて十字架の意味が明らかにされるからです。復活は十字架を消し去ることではありません。十字架をも喜びに変えるのです。

  即ち、痛みや苦難が現在あったとしても、希望の未来は必ず訪れることは可能なのです。そしてこの希望は現実になります。弟子たちはやがて、イエスの復活によって苦難が喜びに変えられるでしょう。その喜びを誰も奪い去る者はいないでしょう。

  イエスがおっしゃろうとするのは、あなた方は今は不安があり、苦しみも、痛みもあるだろう。だが、イースターの出来事に目を留めるようにということです。キリストは、十字架で殺されたが復活し再び出会って下さる。その時、いわく言い難い神の喜びで満たされる。復活の出来事によってあなた方は心から喜び、その喜びを誰も奪うことはできない。泉のように、絶えず私たちの内面から湧きおこる喜びとなるということです。

  先ほども言いましたが、キリスト者を特徴ずけるものは、他の人より何か優れているということではありません。それはただ、キリストに属する者であるということだけです。キリストは私を選んで下さり、その選びを感謝をもって私たちも選ぶのです。

  復活のキリストが私たちの内面に来て下さることを信じる時、この上ない喜びがやって来ます。それは幻想や錯覚ではありません。キリストと私の切っても切れない人格的な喜びの出会いです。

  真の喜びは、私たちを自由にし、解放します。偽りの喜びは短命です。また、反対に長く中毒にしたりして縛りますが、キリストにある喜びは私たちを囚われから解放するのです。

  この喜びは、人が工夫したり、考案したり、操作できるものではありません。命と同様に、この喜びは贈り物です。イエスの復活が与える喜びは予期しない瞬間に与えられる喜びであり、心の芯からの喜びになります。

  心の芯に真実な喜びが与えられること。心の芯、内面から生まれる真実な喜びが私たちに希望をもたらします。内なる喜びこそが、隠されていた希望を見出す力をも持ちます。

  復活のキリストに出会った弟子たちが、どのように変えられていったか。使徒言行録やその他の手紙を見ると明らかです。それは思いがけない大きな広がりをもち、彼らは想像したことがないほど遠くまで発展させられて行きました。全世界に出て行き、地の果てにまで出掛けるまでに発展して行きました。また、年代が下るに連れて、やがて世界の文化に影響を与え、社会や政治にも影響を与えるものになったのは明らかです。初めは一粒の種のようなものだったものが、大きく枝を張る木になって成長して行きました。

  心の芯に授けられる何ものによっても奪い去られない喜び。この内面の喜びこそ、私たちを外に向かわせ、他者に向けて心を開かせ、気前良さ、寛大さ、寛容さをなどを生み出していきます。また今のべたように、社会へと、世界へと向かわせて行きます。それは復活のキリストが下さる神の命であり喜びです。

  私たちの教会は小さな教会です。でもこれでいいと思います。私が赴任した6年前の4月1週の礼拝は13人です。だが小粒でも命があればいいのです。確かな芯があればいい。今はこれだけの礼拝で喜びもありますが、大きくなって誇ろうとしてはなりません。

  確かな芯になる何者にも奪われない内なる喜びをもって生きる。それが歴史の道筋を変えるのです。社会の歩みを変えて行くのです。祈りの内にひたすら待ち続け、キリストとの交わりを保ち続ける。それが社会を変えるエネルギーになっていきます。

         (完)

                                      2011年8月21日


                                         板橋大山教会   上垣 勝


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