新しい時代の夜明け


                      昔見たブールデルの作品はリヨンにありました


                                         希望に変わる君の苦しみ (上)
                                         ヨハネ16章16-24節


                              (序)
  イエスは数度にわたって、「あなた方は私を見なくなる」と言われ、「またしばらくすると、私を見るようになる」とおっしゃいました。弟子たちは、どうしてもその意味が分からなかったと書かれています。「見なくなる。しかし、また見るようになる。」確かに、その言葉はキリストの復活に出会い、復活の主と再会する迄は、謎めいた言葉だったに違いありません。

  誰しも、自分が心から愛し、自分の人生に意味を与え、希望を授けてくれた人に別れを言うのは大変つらいものです。もうこれきり会えないと思うと、切なくなってしまうでしょう。私も時々、自分が先にこの世からいなくなる時、皆さんに何と言ってお別れするだろうかと考えていることがあります。

  イエスも、弟子たちに別れを告げなければなりませんでした。イエスは、「私は父のみもとに行く」と語って別れを告げられました。6節にあるように、これを聞いて弟子たちは、「悲しみで満たされた」と言います。もっともなことでしょう。しかし、「見なくなる。しかし、また見るようになる」という復活を告げる言葉は謎めいていたので、悲しんだだけでなく、非常に戸惑ったのです。

                              (1)
  今日の物語は、イエスの十字架の前の出来事ですが、イエスはご自分の死に対し、弟子たちに備えさせようとされたのでしょう。

  ただ、ヨハネによる福音書が書かれたのは、イエスの死後5、60年の西暦90年代ことで、むろん復活後のことでイエスの死から半世紀以上経ちます。

  このことから、この福音書記者は、イエスと弟子たちの会話をここに記しながら、記者自身が生きている1世紀末の自分の時代、そこに置かれた教会のことも考えながら書き記したのは当然でしょう。

  どういうことかと言いますと、その時代は、ローマ帝国の至る所でキリスト教に対する激しい迫害が起こっていました。教会はむろん、イエス・キリストを信じる群れですから、キリストの言葉を信じ、復活を信じていました。だが、世の人たちにどんなに復活のメッセージを説いても受け留めてもらえなかったのです。

  そのもどかしさ、人々に戸惑いを与え、冷笑さえされる復活の出来事。たとい死んでも生きると説いても、迫害の中で殉教の死を死んで、帰って来ない仲間のキリスト者たち。復活して生き返って来たためしがない訳です。それをどう考えて行くかは、最も重要な課題だったでしょう。

  このことは問題点を少しずらせば、今日の社会状況にも幾分当てはまります。信仰をもたない多くの人たちがいます。神の存在など問題にしません。高度に発達した科学技術。情報化社会。先端的な科学技術がこれまで知られなかった人間の脳の解明、遺伝子の解明を行ない、また宇宙の謎を解いていき、その上、人工的に生命を誕生させるのにそれ程年月がかからないようなことさえ言われます。

  そうした中、この社会に、福音が告げるメッセージが入り込む余地がないかのように思われていないでしょうか。ヨハネ福音書が書かれた時代のキリスト者と似た戸惑い、芽の出ない固い石地のようなものに出会っていると言えないでしょうか。

  しかし、これは今日だけの特徴でなく、西暦1世紀末においても、またあらゆる時代において存在していた難しさでした。だが、それを突いて福音が宣べ伝えられたのです。

                              (2)
  さて、弟子たちの戸惑いに対して、イエスが語られた言葉に注意を向けたいと思います。イエスは20節以降で、「はっきり言っておく。あなた方は泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなた方は泣き悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子どもを産む時、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなた方も、悲しんでいる。しかし、私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない」とおっしゃったとあります。

  先ず、イエスは死後、弟子たちの社会的な経済的な外面的な状況が何か変わるとはどこにも約束しておられません。イエスに従おうと決心すれば、生活がこれまでより楽になるとか、人間関係が改善されるとか、よく眠れるようになるとか、健康になるとかも、何も言っておられません。

  むしろ、あなた方は泣き悲嘆に暮れるが、世はあなた方の姿を見て喜ぶとさえ言われました。

  キリスト教信仰にとって大事なのは、洗礼を受ければ何かがすぐに変わるというご利益的なものではないことです。そうではなく、唯一のまことの神を神とする喜びを与えられることです。それが中心です。信仰の最も中心の核です。イエスが他の所でおっしゃったように、「何よりも先ず、神の国と神の義とを求めなさい」ということです。そうすれば、その他のものは、「添えて与えられる」のです。一番重要なものを先ず求める。この姿勢が重要です。これが信仰の鍵です。これを外すと信仰が分からなくなります。

  その他のもの。例えば心の平和を求めるとか、人間関係の改善を求めるとかはむろん大事です。自分の抱えている何かの問題が解決されるのを求めるとか。それも大切ですが、先ずは唯一の神のみを信じることです。今申しました、「何よりも先ず、神の国と神の義とを求めなさい。」その時、私たちが悩んでいる問題は「添えて」解決されて行くのです。「何よりも先ず、神の国と神の義とを求め」て行くなら、悩んでいる問題はいつの間にか解決されていくでしょう。

  部屋に水が飛び散らかっている。いくら濡れた所を拭いてもダメでしょう。蛇口を先ず止めなければならない。水道が止まれば、いつの間にか枝葉の問題は解決されます。求める順序が大切です。何を優先順序とするかが大事なのです。

  大国を目指し、経済成長を最優先したから、今度のような事故が起こりましたし、原発村というような閉鎖的で、外部の批判に聞く耳を持たない原子力機関の体質を作りました。テゼに行って、ヨーロッパの多くの国々の人たちは原発事故後の日本のあり方に強い不信感を持っていることを知りました。

  そこには信仰的に意識の高い人たちが多く来ているとしても、日本人の生き方の後進性というか、何を優先するかで、世界に先立って新しいエネルギーの開発に挑むドイツ人などとの落差を痛感しました。地震津波原発事故。ヨーロッパではそれを契機に新しい時代の夜明けに多くの人が目覚めたのです。だが、それによってさえも、私たちは新しい時代の夜明けを何も気づいていないのかも知れません。

         (つづく)

                                      2011年8月21日


                                         板橋大山教会   上垣 勝


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