愛の道を選択する


                            リヨン美術館で
                               ・


                                        ティキコとオネシモ (下)
                                        コロサイ4章7-10節


                              (3)
  パウロは、ティキコと共にもう一人、オネシモも同行させました。彼は、「あなた方の一人」とあり、彼は「忠実な兄弟」であるとも述べています。

  「あなた方の一人。兄弟」という言葉の中に、多くの意味が含まれています。先ず、オネシモはコロサイ出身でした。まさにコロサイ人の一人です。しかも、彼は主人フィレモンから逃げた逃亡奴隷だったのです。逃亡奴隷は捕まれば処刑されます。オネシモ事件は小さいコロサイの町では大事件で、誰一人知らない者はいなかったでしょう。もしかすると幼少時からのオネシモの姿も、その性格や癖、言動、家庭の事情、働きなど一切が知られていた可能性があります。そして、主人のフィレモンは、何とコロサイ教会の有力な信徒でしたから、オネシモのことは教会の人たちの関心事であったでしょう。

  そのオネシモは主人の下から逃亡したのですが、全くの偶然から、パウロと出会ったのです。「監禁中に儲けた私の子」とフィレモン書で言われていますから、パウロが監禁中にオネシモも同じ獄中にいたのでしょう。古代の獄中生活ですから彼らは四六時中顔を見合わせています。そしてその生き方、その考えにじかに接します。そして、主人の所ではキリスト教に全く関心を示さず、むしろ憎悪したり、軽蔑したりしていたのに、獄中でパウロからキリストの十字架と愛に触れ、180度転換して、逃亡先でキリスト者になったのです。その詳細な事情はフィレモン書をご覧ください。彼は今、ティキコがコロサイ書を携えて行くのと同時に、パウロがしたためたフィレモン書を彼が携えて、主人の家に帰されて行った。それを、「オネシモを一緒に行かせます」と表現していると思われます。

  これほど感動的な出来事は稀なことです。ここには、キリストによるどんでん返しがあります。主人を裏切って逃亡したオネシモ。オネシモとは有益な者という意味です。彼がキリストに捕まって、キリストの僕となり、主人の下に帰って、今や、町の人が見守る中で、キリスト者として有益な者となって帰って来た。

  主人フィレモンは、一時彼を失いましたが、まるで失われ死んでいた放蕩息子が、砕かれて生き返って父の下に帰って、有益な息子となっていくのに似ています。キリストが主人と奴隷の間を取り持ち和解されたのです。

                              (4)
  私たちは今回の旅で、聖書をまた新しく読み直すことが出来ました。それは当時のローマ社会の身分制や階級性がいかに厳しく人々を分けていたかです。

  オランジュという小さな町に、今も残る巨大建造物がありました。世界遺産になっているものだそうです。それはイエス時代かそれ以前に建てられた石の巨大な古代劇場で、今もまるで山のように聳える建物でした。オランジュの古代劇場ほど2千年前の原形をとどめているものは他にないようで、劇場ですから舞台がありますが、そ舞台の長さは何と100m以上あります。舞台ですから後ろの壁がありますが、背景の壁は高さ36mもあります。今の建物で言えばほぼ10階建てです。もの凄い建築物です。恐らく世界最大の舞台でしょう。その最上段の切り込みの棚に皇帝アウグストの石像があって当時の姿を留めていました。

  まるで化け物のような巨大な建物が屹立して建っている。しかも2千年間そこにあり続けたのですから驚きでした。ちなみに、この劇場で、オランジュ音楽祭というのが140年前から行なわれているのだそうで、世界で一番古く有名な音楽祭で、これに出演することは世界のトップスターに躍り出た印だそうです。

  ローマ社会は自由と規制の入り混じった姿をしています。この巨大な古代劇場は貴族、軍人、この町や近辺の有力者、一般市民と共に、奴隷たちも入場できたそうです。しかも無料です。現代の音楽祭の入場料は2,3万円です。ローマは実に誰にも寛大に開放したのです。ただ、ローマ社会の階級に従って席が決まっていて、別の階級の席に決して入れませんでした。勿論奴隷たちは、すり鉢型の階段の最上階の末席でしか観ることはできませんでした。階級間の区別は厳格で、奴隷と他の階級が同席することは決してなかった。あり得なかったのです。

  ところが、パウロは奴隷オネシモを、「忠実な愛する兄弟」と呼んで手紙するのです。奴隷を兄弟と呼ぶことはローマの慣例にないことです。しかもパウロはフィレモン書においてはフィレモンに、あなたにとっても彼は、「一人の人間として、愛する兄弟である筈です」とさえ書いています。

  キリスト教奴隷制度の身分を、キリストにおいて既に超えていたことの一端をここに見ることが出来るでしょう。

  翻って、なぜティキコが遣わされたのかと思います。それは、オネシモをコロサイ教会が冷たくでなく、兄弟の愛をもって温かく迎えて欲しかったからでしょう。いや、熱く歓迎して欲しかった。そして特に主人フィレモンに、逃亡奴隷オネシモを信仰の友として、信仰の兄弟として、寛大に赦し、かつては主人に不義を働いたが、今、キリストにおいて忠実な人間となって帰って来たこの奴隷を、勇気をもち、大胆に兄弟として愛し、受け留めて欲しいからでしょう。これは世の常識を覆すことです。

  もし、そういう、現実社会では決して起こらないことがコロサイ教会で起こるなら、それこそキリストの誉れになり、コロサイの町でキリストのみ名が更に崇められるようになるに違いないからです。

  しかも、そういう出来事が起こるなら、グノーシス主義に対して、キリスト教信仰の優位性がまたキリスト教信仰の現実性、具体性が証明されるようになるからです。

                              (5)
  結論を言うなら、パウロはコロサイ教会とフィレモンが、「愛を選択する」ようにこの2人を送るのです。法を犯し、逃亡したから厳しい制裁を加え、痛い目にあわせ、2度としないように懲らしめる。他の者への見せしめのためにも厳罰に処するというような道でなく、「愛を選択する」。これです。

  不況と津波原発の被害で多くの争いが今後起こるでしょう。経済的な不況が深刻になる中で世はますますギスギスして行くかも知れません。世界を見回しても、今後、イギリスで起こったような暴動や混乱が増えて騒然とした世界がやって来るかも知れません。自民党と一緒に朝日新聞も首相下ろしのキャンペーンを盛んにやっていますが、私は首相の肩を持つわけでありませんが、首相が変わればすっかり良くなるとは決して思われません。

  しかし私たちは、社会が混乱する中、社会を変えるために武器を取って戦う暴力の道を選択するのでなく、むしろ暴力の道を拒否し、また単なる不満分子になるのでなく、社会を新しく変え、創造する機会として不況も困難も受け止めて行きたいと思います。

  私たちには十字架と復活の終末的な勝利の信仰が示されています。ですから、いかなる時にも、「愛の道を選択」するのです。憎しみの道ではありません。憎悪に憎悪を増し加え、火に油を注ぐ道ではありません。対話の道、平和の道を選択するのです。神はただ愛のみであられますから、私たちも愛を平和をしぶとい対話の道を選択するのです。

  そのためには、繰り返してますます信仰の源に帰る必要があります。憎しみでなく、愛を選択して生きるために、ますますキリストに繰り返し帰っていく生活は不可欠です。

  パウロが獄中から2人をコロサイに送るのは、こういう大切な意味を持つものであります。

            (完)

                                          2011年8月14日


                                         板橋大山教会   上垣 勝


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