本物の人生を送るのに奥儀はあるか


                  リヨンは星の王子様のサン・ティクジュペリが生まれた町です


                                          主のみ心を悟る (下)
                                          詩編1篇1-6節


                              (2)
  詩編1篇は、真実な人生を送りたいすべての人が願い、待望することを語っています。「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道に留まらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し…。」偽りなく、本当に生き生きと生きる人生を、本物の人生を歩みたいと考える人の幸いと喜びを語るのです。また「流れのほとりに植えられた木。時がめぐり来れば実を結び、葉もしおれることがない」と語ることによって、幸いと喜びの道を選択することを呼びかけ、求めています。

  聖書が語る喜びの選択は、困難な問題に目をつぶったり、顔を逸らしたりすることではありません。むしろ現実と直面し、苦しみを共にするようにさせるでしょう。それが神が下さる喜びです。

  イエスが十字架の現実を負い、「彼らの罪をお赦し下さい」と祈られました。罪人と現実を共にするために、十字架にあって彼らに歩み寄られました。神にある喜びは、現実と果敢に直面する力を与えます。この喜びは私たちの心に、他者を深く憐れむ心、人の痛みを自分の痛みとする心を生んで行くのです。

  アヴィニヨンで救急車を呼んで、救急車が来るまでそこに留まり続けてくれた人は、英語が全く話せないフランス人でした。しかし、言葉が通じないのを気にもせず、親切を尽くしてくれました。神の喜びを選択した者は、人との善い交わりを造り出す者へと変えられて行くのです。自分だけの幸福追求というのはイリュージョンです。幻想です。まやかしです。

  今回、テゼで喜びをめぐって学びましたが、神に喜びを与えられる時には、不幸な人や重荷を負う人、虐げられた人と共に歩むという、世の流行に逆らって泳ぐ勇気すら与えられることを示されました。先ほどのドライバーは、川越街道か中仙道のような何車線もある道路の対向車線を走っていたのですが、わざわざUターンして来て助けてくれました。車の流れに逆らって、戻って来て介抱してくれました。

  聖書が語る喜びは、たた地位のアップを喜び、財宝が増し加わるのを喜ぶような、熟し切れば臭気さえ漂いそうな喜びでなく、身が引き締まった快い喜びです。地の塩となる喜びです。キリストの聖霊は、苦しむ人の近くに留まり、困難な状況を共にしようとすることへと私たちを押し出すのです。

                              (3)
  主の教えを愛する人が、どうして「流れのほとりに植えられた木」に譬えられるのでしょう。

  木は大地に深く根を張って生きているからです。しかも彼らの寿命は動物と比べて格段に長く、何百年、何千年も生き続けるものもあります。また、いったん根付いた木は引き抜くのは実に困難です。

  木に譬えられるのは、また、その新鮮さのためです。冬には枯れたようになる木も、毎年、新芽を出して芽吹きます。板橋一中前の通りの楠木の並木が毎年、6月頃になると赤味を帯びた柔らかな若葉を芽吹き、青空に向かって何とも表現できない美しい姿を表わします。ケヤキの繊細な枝に、柔らかい無数の稚葉がいかだ状に萌え出て風に揺れるのも私たちの心を引き付けます。

  そんな繊細さを持つ木ですが、嵐が来ても動じません。大きく風に揺すぶられ、太い枝がたとえ折られることがあっても、固く大地に留まって動じません。体のこと、暮らしのことで明日を思い煩うなとありますが、私たちは木のように神に一切を委ねる大胆さが必要です。

  そして多くの木は実を結びます。風に吹かれるもみ殻とは雲泥の差です。

                              (4)
  本物の人生を生きるのに奥義があるでしょうか。そこに至る道はあるのでしょうか。第1篇はその道の一つを私たちに指し示そうとするのです。

  「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」昼夜に口ずさむのは、それが心を励まし癒すからです。その教えは快いからです。我が身を戒めるからです。我が道の光となるからです。砕きもしてくれるからです。

  聖書は、神様から私たちに宛てられた親展だと言われます。それは教会に宛てられた手紙であるだけでなく、人類に宛てられた手紙ですし、個々人に宛てられた手紙です。

  神からと言いましたが、恋人から愛を込めて書かれた手紙をもらえば、何回も繰り返して読むでしょう。そこに相手の心があるからであり、手紙は相手そのものです。一語一語が胸に熱く響き、心の深くまで届いて来ます。

  それなのに、結婚して何年か経つと、その言葉が心の奥深くまでグサッ、グサッと刺さる言葉に変わるのですから人の世界は不思議です。恋愛時代はまさかそうなるとは誰も思いません。

  聖書を、愛する人からもらった手紙のように、心を弾ませて繰り返して味わい読むこと。そんなこと出来る筈がないと思う人もおられるかも知れませんが、その壁を突き抜けて行くと、そこに本物の人生を歩む道が現れて来ます。そこに人生の奥義が隠されています。

  イエスが教えられた、畑に隠された宝を見つけた人の譬えでも、その人は喜びの余り持物を売り払ってその畑を買うと言われています。そのような喜びになります。

  それに対し、「神に逆らう者」の道、「罪ある者」、悪しき者の道は、自分の欲望を満たそうとこの世の道に易々と従い、即物的な欲望に引きずられて先のことを考えない。キリギリスのような生き方ということでしょうか。ただどんな人も、それを悔い改めるなら、その時から新しい人生が開けます。

  本当の幸いな人生は、内面的な心の態度、内面生活のあり方の結果として現れるものです。即ち、「主の教えを喜ぶ」心であり、「主の掟を」繰り返し黙想し、愛する、内面のあり方です。即ち、主によって導かれる人生です。

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  先に、「主の教え」は主の掟とも、主の律法とも訳せると申しました。しかし本来、掟ないし律法と喜びは矛盾するのではないでしょうか。ということは、掟とか律法と聞くと、私たちが思いつくのは一連の規則や法律、戒律や罰則などだからです。

  だが神の掟、神の法はそれとは全く違います。聖書の語る神の法、掟は、本来的には人を縛るものや制限するものではありません。そうではなく、神の法は、人間の人生と生活の目標全体であり、愛と喜び、信頼と平和を作り出すプロジェクト、計画です。

  天地が造られた時、神は7日目にご自分の仕事を完成され、安息なさったとあります。神の掟は、私たちの人生がまたこの世界がこの完成に至るためのプロジェクトです。

  詩編は、盲目的に掟に従えと言っているのではありません。表面上従っていればいいというものではありません。大事なのは掟ではありません。そうではなく、私たちに対する神の意志を理解することです。信頼することです。それが喜びを与えるのであり、素晴らしいことであり、美しいことであり、元気を与えることだからです。

  神の掟とは掟そのものではなく、私たちに対する神のお心、その愛です。それを聖書を通して掴み、日常生活で起こる様々な出来事において掴み、人類の歴史との関係でも掴むことが大切です。

  神の意志は神の愛以外の何ものでもありませんから、主の教えや掟を思い巡らし、生活の中に見え隠れする神の働きとみ心を思い巡らし、心に触れて来る喜びを黙想しつつ生きるなら、本当の意味での充実した生活が私たちの中に始まるでしょう。

  それは隣人への思いやり、また人の罪を赦す生き方となって、多くの実を結ぶ木になるに違いありません。

         (完)

                                        2011年8月7日


                                         板橋大山教会   上垣 勝


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