画一的な信仰者像はありません


                        リヨン美術館は元は修道院でした


                                          主のみ心を悟る (上)
                                          詩編1篇1-6節


                              (序)
  今年は久しぶりに長い休暇を頂いてリフレッシュができ、有難うございました。テゼに着くまで幾つかの町を訪ね、帰りもまた一つの町を訪ねました。それで何ヵ所かのホテルに泊まりましたので、帰国した夜、帰る家が分からない夢に悩まされて、苦しみました。外国のどこかの町で、帰る場所が分からないんです。全く途方に暮れました。

  もう2度と外国に行くまいと思いました。でも、目を覚ますと現実は違いました。また機会があれば…人間は至って勝手です。

  高齢者が旅行するのは危険を伴います。今回、妻はアヴィニヨンという町で平らな舗道を歩いていて、転んで、フランスの救急病院に運ばれました。これは夢ではありません。その辺のことは来週のお茶の会で話が出るのでないかと思いますので、今は申し上げません。

  ただ親切なフランス人がいて救急車を呼んでくれました。善きサマリア人の話が聖書に出て来ますが、話でなく、実際に善きサマリア人にアヴィニヨンという町で出会いまして、私は予定外の土産話を仕入れることが出来ました。

  これらのことが今日の詩編とどう関係するのか、お話ししている私も分かりません。休暇を頂戴して、UさんとMさんには奨励をして頂いてありがとうと言うつもりで、話し始めたことです。

                              (1)
  さて、詩編1篇2節に、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時がめぐり来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」とありました。

  聖書を順番に読んで来ますと、詩編の前にヨブ記があります。ヨブ記には他では得難い深い真理が指し示されています。しかし、そこには重苦しい、時には気の滅入るような雰囲気もあります。苦難の中でのたうちまわるヨブの姿は痛々しい限りです。ところが詩編に入ると、「いかに幸いなことか」と、暗雲が吹き払われ、これまでとは見違える程の世界が登場します。別天地と言っていいほどです。だがヨブ的な信仰者と暗雲が吹き払われた世界にいる信仰者は、どちらも本物の信仰者です。信仰者とはこうだという枠はありません。画一的な信仰者像はありません。それは聖書を続いて読んで来て分かります。

  さて、この「主の教え」というのは、主の掟、主の律法とも訳せる言葉です。この第1編は詩編150篇全体の入り口にあって、詩編全体を見通すような、全体の姿をおぼろに映すような位置を占めて、主の教えに従う者の幸いを歌っています。この詩篇に照らして、これに続く詩編も読むべきなのでしょう。

  「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」というのは、昼夜と言っても字義に囚われる必要はありません、神の教えを心に留め、黙想する人、その言葉をめぐって考える人です。キリスト者とは、主の言葉を思い巡らせて人生を旅する旅人です。

  私たちは今回の旅で、歴史に登場する何人かの人の家を訪ねました。すると、それらの人は自分の部屋に祈祷台を持っていました。ある人はベッドの横に祈祷台があって、起きるとすぐ祈祷台に跪いて祈ったようです。朝4時に起き、起きるとすぐに祈り、4時半から執務し、暫らくして朝食をとったそうです。「昼も夜も」とは、祈祷台を持つかどうかでなく、み言葉を思い巡らし、神に向かって生きるあり方を指します。

  その人は、流れのほとりに植えられた木のようで、シーズンが来ると花が咲き、実を結ぶ。萎れない。大きく繁栄をもたらすというのです。

  教会に帰って来て驚きました。緑色のほうき草が一回り大きくなり、ブーゲンビリアが一段と大きく成長し、もう一度真っ赤な花を付けて咲いていました。ただ、帰って来て、5才のMちゃんに会ったら、「バっちゃん、暫らく見ないうちに大きくなったね」って言われたそうです。出掛ける時に芽が出始めていたバラの挿し木が、何枚も葉っぱを付けて10cm程に育っていました。流れのほとりに植えられた木とありますが、留守の間水やりをして下さった方のおかげで、萎れず、元気に大きく育っていました。嬉しい限りです。

  それに対して、神の教え、掟に従わない人は、試練の中で風に吹き飛ばされるもみ殻のよう。神の裁きにも堪え得ないとあります。

  詩編箴言、伝道の書、ヨブ記などと共に、聖書の中の知恵文学の一つです。知恵とは本当の生き方についての神の教えのことです。有名なソロモン王も詩編を幾つか書いていますが、彼は知恵によって若者たちを教育しようとしたようです。ソロモンの博識は名高いですが、それは単なる知識教育でなく知恵の教育です。

  キリスト教主義学校を出た人もおられますが、キリスト教主義学校は本来単なる知識教育でなく信仰を基にした知恵と人格の教育です。ですから寮教育を重んじました。寮監は人格的に寮生と出会い、信仰の知恵を持って育てました。人間は昼間は理性が働きます。しかし夜の7時頃から、どうしようもない情念が本音となって出て来ます。例えば、青年の悩みの一つは性の問題です。性の問題で多くの人間は道を踏み外します。また嫉妬や妬みや恨みなどの問題も深刻です。昼にはそれらをコントロールできても、夜一人になるとそれらが蛇のように鎌首をもたげて来て悩ますのです。寮監はそういう誰かれには言えない問題で寮生と出会い、その人格と向き合っていきます。いずれにせよ、詩編もこの知恵文学の一つです。

        (つづく)

                                         2011年8月7日




                                         板橋大山教会   上垣 勝


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