塩味のきいた言葉で


                         シェークスピアの家の勝手口で  
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                                           塩味のきいた言葉で (中)
                                           コロサイ4章5-6節


                              (2)
  さて、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」です。

  「塩で味付けされた言葉」とは、塩によって引き締められ、清められ、砕かれ、そこから出て来る言葉です。自分なりに内省し、弱さと多くの罪を持った自分の心の中、実存の中を一度潜って語られる言葉です。「塩で味付けされた言葉」は、内省なき、暴慢な、命なき言葉ではありません。

  時々、愛餐会で頂戴するSさんのぬか漬けの味は、酷暑の時に頂くと、身体も心もシャキッとします。「快い言葉」とは、耳に快いだけでなく、適当な塩味があるから快い。適度に酸っぱさもある。甘過ぎる言葉は、頻繁だと聞くに堪えません。また、塩味が効きすぎて、辛すぎる言葉、苦すぎる言葉、トゲある言葉は頂けません。

  「快い言葉で。」これは元の言葉は、「カリスの言葉で」、となっています。カリスとは恵みです。キリストの恵みです。キリストの恵みの言葉で語りなさいと勧めているのです。辛すぎる、苦すぎる、トゲある言葉でなく、キリストにあっての恵みという、真に快い言葉で語りなさいということです。

  カリスを頂いて語るわけですから、そこには、自分の生き方が滲み出たり、反省がキラッと光ったり、悔い改めがあったり、命の光が瞬時輝いたりする真実な言葉です。真実だけでなく、真実になり切れない、自分もまた悩みの中にある、救われ難き一人だという真実さが滲んでいる言葉にもなるでしょう。そういう心が快いのです。

  詩編84篇に、「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷も泉となる」とあります。

  この信仰者は狭い、厳しく窮屈な場所に置かれているのかも知れません。だが、いかに狭くても、主にあって勇気を出す時、そこに「広い道」が見えて来るのです。キリストにある時、「広い道」が啓示される。また、「嘆きの谷も泉となる。」これまで自分は嘆きのために、その泉が見えなかった。あるのは嘆きの谷だけだった。キリストの恵みを頂き、あるいはキリストの苦難の意味が分かる中で、嘆きの谷さえ泉ある所とされた。こういう真実がこもった告白が、快い言葉です。

  もう一つご紹介しますと、147篇には、「主は打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んで下さる」とあります。挫折なき人でなく、一度、二度、三度と打ち砕かれて、傷を主の愛のみ手で包んで頂く時、人の言葉は優しさを増し、快くなります。

  先日ある若い人と話していて、ご自分の近くの大きな病院に行ったというのです。で、色んな検査をすることになった。そしたらその医者が、「これを何とかに回してくれ」と言われたというのです。カルテでなく、人を、「これ」呼ばわりされたと言っていました。

  そんな医者だけでなく、いい医者は沢山おられます。心配いりません。だが技術だけある医者は困ります。患者は病気の個所だけでなく、病んだ人間全体を診て欲しいのです。

  牧師に読まれる本に、「傷ついた癒し人」という書物がありますが、確かに傷ついて初めて、人を癒すことが出来るのかも知れません。これは他の分野でも言えることです。

           (つづく)

                                        2011年7月10日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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