自分が気づくことは相手も気づく


                            住まいの窓から
                               ・

                                           塩味のきいた言葉で (上)
                                           コロサイ4章5-6節


                              (1)
  今日の個所はキリストや神という言葉は一切出て来ません。ここにあるのは、キリストにあっての生き方です。キリスト教倫理と言っていいでしょう。しかし、それはキリストと離れたものでなく、キリストにあってどう生きるかということです。私たちは言葉だけでなく、生きざまを通してキリストを証ししていきます。言葉だけだと、信仰がおしゃべりになってしまいます。今日の5節に、「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい」とある通りです。

                              (序)
  6節に、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」とありますが、端的に言って、これはキリストの言葉で味付けされることです。

  なぜなら、5節で、「時をよく用いなさい」とありますが、ギリシャ語には時を現わすのに2つの言葉、クロノスとカイロスがありますが、普通の時間の流れを指すクロノスでなく、ここはカイロスという語が使われています。カイロスとは、決定的な神の時、キリストとの決定的な出会いの時、罪赦され、新しい歩みが始まる時のことです。

  孤立して生きるのでなく、キリストに決定的に根差して生きること。キリストによって戒められて生きることです。自分で自分を戒めるのでなく、一切を神の裁きに委ねるのです。安心して裁いて頂く。だから誰をも恐れる必要はない。

  また、キリストによって罪を赦された故に、赦しの塩味が効いて来るし、恵みにより慰められ、あなたは立ちうるとの励ましの言葉にもなります。

  市橋被告の裁判が千葉で始まりました。イギリス人の若い語学の先生を酷い殺し方で殺し、2年7カ月逃亡し、全く足取りがつかめず世間は忘れかけていました。建築現場で働き、顔に整形手術をし、沖縄の小さな島にまで行って潜伏するという小説まがいの逃亡でした。

  だが、隠れているもので現れないものはありません。遂に逮捕され、裁判になりました。市橋被告は、出頭しなかった理由を聞かれて、「私の中は、自分勝手で溢れています」、「被害者にした行為に向かい合おうと思わなかった」と述べたと言います。

  彼の良心は、悪いことだとよく気づいているのです。だが色んな弁解で逃げて来た。彼もアダム、エヴァのように勝手な責任転嫁で生きていたのです。「誰だって逃げるんだ」と自分に言い聞かせて逃げ続けたと言います。

  こういう大それた事はしないかも知れませんが、私たちも良心で気づきながら、厳しく指摘されないうちは、誰だってこうだとか、これ位は赦されるだろうとか、しばしば自分勝手に生きてしまう人間ではないかと思います。私自身そうです。皆さんはどうでしょうか。

  自分に正直であらねばなりません。キリストの十字架の赦しに与る時には、自分勝手な自己義認ではありえないでしょう。自分勝手な解釈や自己義認によってキリストは十字架に付けられたからです。律法学者やファリサイ人、祭司長などが十字架に付けた。それによって、今も十字架に付けられるのはキリストです。

  ですから、悪いと気付いたことは直ちに率直に謝りたいと思います。自分が気付くことは、必ず相手も気づいています。はっきりでなくても、薄々気づいています。誤魔化すのでなく、神の裁きの下に服する時、気が休まります。休息があります。最近は新聞を読んでいると、色々教えられます。政治家の発言や色んな人のやり方が、国民の模範でなくて反面教師になって教えられます。

          (つづく)

                                        2011年7月10日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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